第2話:記憶のゴーストフィルタ
渋谷のスクランブル交差点から、這うようにして逃げ出した。赤信号が青に変わり、何事もなかったかのように流れ出す人の波。その誰一人として、つい数十秒前までそこに存在していたはずの少女――橘美咲のことを覚えていなかった。魁人は右目に走る鋭い痛みをこらえながら、夕暮れの街を早足で歩き抜けた。
「嘘だろ……」
手の中のプロト・ターミナルは、今も微かに熱を帯びている。液晶画面の隅で、緑色のインジケーターが冷酷に点滅していた。
【橘美咲:存在データ復元率 15%】
肉体を失い、ただのバイナリコードの断片となってしまった幼馴染。それを証明する唯一のデバイスをポケットにねじ込み、魁人は逃げるように自宅アパートへと向かった。目指すのは、渋谷の喧騒から少し外れた静かな住宅街に立つ、古い三階建てのマンション「神代家」だ。ここだけが、自分にとって唯一の安全な領域であるはずだった。
ガチャリ、と重い鉄の扉を開ける。
「ただいま」
玄関の三和土に靴を脱ぎ捨てながら、魁人は声を絞り出した。奥の台所から、小気味良い包丁の音が聞こえてくる。黒髪のボブカットを揺らし、中学校のセーラー服の上にエプロンを羽織った少女――十四歳の妹、玲奈が顔を覗かせた。
「あ、お兄ちゃん、おかえり。遅かったね、今日の予習終わったの?」
玲奈の健気な笑顔。いつもの、ありふれた日常の光景。だが、魁人の心臓は警鐘を鳴らすように激しく脈打っていた。彼は玲奈の肩を掴み、すがるような声をあげた。
「玲奈、美咲は……美咲はここにきてないか!? 連絡はあったか!?」
玲奈は驚いたように目を丸くし、それから不思議そうに首を傾げた。
「美咲……? 誰、それ。お兄ちゃんの新しい友達?」
冷たい氷水を背中に流し込まれたような感覚が、魁人の全身を駆け抜けた。冗談を言っている目ではない。玲奈の瞳には、一切の曇りも、悪戯の気配もなかった。ただ純粋に、その名前を「知らない」のだ。
「美咲だよ! 橘美咲! お前の幼馴染で、昨日も一緒にここで宿題を――」
「お兄ちゃん、何言ってるの?」
玲奈の顔に、徐々に不安の影が広がっていく。「私、そんな名前の子、知らないよ。私とお兄ちゃんの幼馴染なんて、最初からいないじゃない」
最初から、いない。
システムが稼働させた「認知フィルター」の冷酷さを、魁人は脳髄で理解した。バグモンスターに消去された人間のデータは、ただ物理的に消えるだけではない。一般市民の脳内メモリに常駐する「記憶データ」からも、その存在の痕跡が完全にデリートされるのだ。美咲がこの世界に生きていたという事実は、右目が「ソースコード操作者」として目覚めてしまった魁人の脳内にしか残されていない。
「……いや、なんでもない。俺の勘違いだ。少し、頭が痛くてな」
魁人は玲奈の手をそっと離し、自分の部屋へと逃げ込んだ。ドアを閉め、暗闇の中で壁に背を預けてずりずりと座り込む。孤独と絶望が、冷たい泥のように身体を侵食していく。
ポケットからプロト・ターミナルを取り出す。画面の緑色のラインアートが、不規則に脈打っていた。スピーカーから、ざあざあと砂嵐のようなノイズが漏れる。
『カ……ト……冷た……い……ここ……どこ……?』
「美咲……!」
かすかな、だが間違いなく美咲の声だった。データ化され、スマホの狭いメモリ領域に圧縮された彼女の「魂の残渣」が、ノイズの隙間から魁人に助けを求めている。データ復元率はわずか15%。これ以上、彼女のデータが摩耗すれば、完全にこの世界から消滅してしまう。
「待ってろ、美咲。俺が必ず、お前を元の世界に書き換えてやる」
そう誓った瞬間、プロト・ターミナルの画面が激しく赤色に明滅した。
【警告:未知のパケット追跡を検出】
【IP経路:逆探知進行中 88%】
画面上に、レンが開発して魁人の端末に常駐させたAIアシスタント「シオン」の青いアバターが現れた。その冷徹な表情には、強い警戒のグリッドが走っている。
『警告。ユーザー神代魁人。あなたの生体信号およびIPアドレスが、システム本部の防衛プログラムにロックオンされました。脳メモリ使用率、現在45%。前回のDeleteコマンドによる熱暴走の残渣が残っています。直ちに対避難措置を』
「追跡……!? もう見つかったのか!」
直後、アパートの窓の外から、電子が弾けるような不気味な高周波ノイズが響いた。魁人が窓の外を見下ろすと、暗い路地裏の電柱の影から、赤い光を放つ複数の「眼」がこちらを凝視していた。
ワイヤーフレームのノイズと、赤く光る光学センサー。それは、現実世界の物理法則を無視して壁を這い上がってくる金属製の猟犬――自律型駆除プログラム「ハウンド」だった。
「チッ、くるな……!」
ハウンドの一体が、窓ガラスを物理的に突き破って部屋へと突入してきた。ガラスの破片が飛び散る中、ハウンドの口から、魁人の脳波を直接揺さぶる過負荷ノイズ(デバフパケット)が放射される。
「ぐああっ!」
頭を鉄の万力で締め付けられるような、凄まじい頭痛が魁人を襲った。視界が二重にブレ、指先が激しく震える。プロト・ターミナルの仮想キーボードに指を走らせようとするが、正確なキー入力ができない。
『脳メモリ使用率、急上昇。現在72%。精神への直接干渉を検知。タイピングの構文エラー発生率が90%を超えています』
シオンの警告が、魁人の脳内で反響する。ハウンドは魁人の「生体信号(心拍数)」をトレースし、その座標にミリ秒単位でノイズを合わせているのだ。このままでは、コマンドを入力する前に脳が焼き切れ、廃人にされる。
(落ち着け……論理的に考えろ。敵は俺の心拍とIPを追跡している。なら、家庭用のWi-Fiルーターをハックして、ダミーパケットを送信すれば――)
魁人は震える指で、ルーターのIP偽装コードを入力しようとした。
`MOD [target: home_router] [IP_spoof = true]`
だが、エンターキーを押す前に、ハウンドのアルゴリズムがその意図を先回りして遮断した。ルーターのアンテナが赤いノイズを放ち、強制シャットダウンされる。ダミーパケットによる偽装は、一瞬で見破られた。
【Syntax Error: Connection lost. Target rejected.】
「ダメだ、通信経由のハックじゃ追いつかない……!」
ハウンドの鋭い爪が、魁人の喉元へと迫る。距離はわずか数センチ。回避する物理的な時間は残されていない。
『脳メモリ使用率 80%。危険領域。これ以上のハッキングは脳内熱暴走を引き起こします』
(いや、まだ手はある。敵が俺の心拍数をトレースしているなら、その『予測アルゴリズム』の裏をかく!)
魁人は深く息を吸い、次の瞬間に完全に呼吸を止めた。心臓に極限の負荷をかけ、自身の心拍数を意図的に急上昇させる。規則的だった生体信号が、一瞬にして不規則なカオスへと遷移した。
ハウンドのセンサーが、魁人の突然の信号変化に追従できず、一瞬だけ動きを止めた。予測軌道が「ズレた」のだ。
「今だ!」
魁人はその微小な隙間を突き、プロト・ターミナルの仮想キーボードに、持てるすべての打鍵速度を叩き込んだ。入力するコマンドは、周囲の時間を1秒間だけ遅延させる時間制御コマンド――。
`P-I-N-G̀
【Command: Ping Delay -- Executing...】
瞬間、魁人の右目が鮮やかな緑色に明滅した。世界から音が消え、すべての物質が緑色の半透明な「水の中」に沈んだように、極限のスローモーションへと移行した。ハウンドの鋭い爪が、魁人の前髪をかすめる位置で完全に静止している。制限時間は、わずか1秒。
「はああっ!」
魁人はスローモーションの世界の中で、ハウンドの胴体の下を滑り抜けるようにして窓から外へと身を投げ出した。ベランダの手すりを掴み、二階の非常階段へと滑り落ちる。
1秒が経過し、世界に「時間」が戻った。
背後の部屋で、ハウンドの爪が壁を物理的に引き裂く凄まじい破壊音が響く。魁人は非常階段を駆け下り、アパートの裏手にある暗い路地裏へと転がり込んだ。脳が焼けるような激痛と、右目からの微細な出血。呼吸が激しく乱れ、膝がガタガタと震える。
「はぁ、はぁ……逃げ、切れたか……?」
だが、安堵のため息を漏らす暇はなかった。冷たい夜風が吹く路地裏で、魁人が顔を上げた瞬間、カチャリ、という冷徹な機械音が頭上から響いた。
電柱に設置された街頭防犯カメラ。そのレンズが、生き物のように不気味に回転し、魁人の顔をピンポイントで捉えていた。カメラの奥で、管理者の広域監視AI「アイズ」の冷たい青い光が明滅している。
【対象コード:神代魁人。危険度レベル1。顔認識完了】
【渋谷セクター全域に検閲命令を送信中】
街全体が、魁人を「排除すべきバグ」としてマークした瞬間だった。魁人はフードを深く被り、光るレンズから視線を外して、暗闇の奥へと走り出した。
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