第1話:不整合のスクランブル
渋谷は、いつも通りノイズに満ちていた。
ハチ公前からスクランブル交差点へと吐き出される無数の人間。その群衆の喧騒の中で、高校生である神代魁人の右目は、数日前から奇妙な「不調」を訴えていた。
「ねえカイト、聞いてる? 明日の予習、終わらせとかないと佐藤先生にまた居残りにされちゃうよ?」
隣を歩く幼馴染、橘美咲の声が耳に届く。だが、その声は妙にズレていた。映像と音声の同期が取れていない動画のように、彼女の唇の動きから一瞬遅れて言葉が脳に届く。それだけではない。魁人の右目の視界の端に、緑色の極小の走査線が走り、文字が明滅していた。
【警告:ローカル描画レートの低下(Latency: 120ms)】
【不整合オブジェクトを検出中……】
「……ああ、わかってる。レンにノートを借りるから大丈夫だ」
魁人はこめかみを押さえ、視界を遮るように瞬きを繰り返した。ただの疲れ目ではない。世界そのものが、まるで劣化したデジタル映像のように歪んで見えていた。
その時、世界の「再生ボタン」が突然、強制停止された。
キィィィン――という、鼓膜を直接針で突き刺すような高周波のノイズが渋谷全域に鳴り響く。数万人の歩行者が一斉に足を止め、耳を押さえた。いや、違った。彼らは「静止」していた。交差点の真ん中で、足を一歩踏み出した姿勢のまま、人々が彫像のように硬直している。
動けるのは、魁人だけだった。
「美咲……? おい、冗談だろ」
美咲の顔を覗き込もうとした瞬間、足元のアスファルトが緑色のバイナリコードの海へと溶解し始めた。コンクリートの硬度パラメータが消失したかのように、地面がドロドロとした粘着質に変貌する。重力演算がクラッシュしたように、浮遊するノイズの破片が宙を舞った。
そして、交差点の中央から「それ」が湧き上がった。
ビル3階分に達する巨大なノイズの塊。それは無数の崩れたテクスチャと、剥がれかけた人間の顔が不規則にパッチワークされた、異形の怪物だった。全身を走る赤いバイナリコードが、狂ったように明滅している。システムのバグが具現化した災害――「コード・イーター」だ。
怪物が動き出した瞬間、静止していた歩行者たちの身体が、まるでデジタルノイズのようにピクセル化し始めた。肌が四角いブロックに分解され、空気中へと吸い込まれていく。だが、人々はその異常を認識していないようだった。彼らは「ユーザー」――システムに認知を支配された一般市民であり、この現実のバグを「ただのめまい」として処理し、無自覚のまま消去されていく。
「嫌……カイト、助けて!」
不意に美咲の凍りついていた時間が動き出し、彼女は悲鳴を上げた。彼女の足元が、すでに緑色のピクセルに分解され始めている。存在データが、コード・イーターの引力によって直接吸い出されているのだ。
「美咲!」
魁人は彼女の手を掴もうと地を蹴ったが、溶解したアスファルトに足を取られ、無様に転倒した。手を伸ばしても届かない。美咲の膝から下が、完全に半透明のワイヤーフレームへと書き換えられていく。
(クソ、どうすればいい!? 物理法則が狂ってる……何なんだ、この世界は!)
その時、魁人の右目が激痛とともに完全に「覚醒」した。視界が急速にモノクロへと反転し、世界を構成するすべての物質の裏側にある「ソースコード」が、緑色の光る数式として網膜に直接投影され始めた。ビルの壁、信号機、そして迫り来る怪物の身体――すべてが、バイナリの羅列で記述された「オブジェクト」に過ぎないという冷徹な真実が、脳内に直接流れ込んでくる。
視線の先、誰かが落とした最新型のスマートフォンが、溶解しかけたコンクリートの上に転がっていた。それは普通の端末ではない。怪しげなデバッグ用OS「D-OS」が起動し、空中にホログラムの仮想キーボードを展開している改造デバイス――「プロト・ターミナル」だった。
魁人は本能的にその端末を掴み取った。画面には、周囲の物理パラメータを書き換えるためのコマンドラインが点滅している。
(落ち着け。論理的に考えろ。この怪物は周囲の『結合コード』を喰って肥大化している。なら、その論理構造を逆ハックすれば――)
魁人は仮想キーボードに指を走らせた。まずは目の前の「信号機」のコードを書き換え、物理的な「密度」を最大化して盾にしようと試みた。
`MOD [target: traffic_light_04] [density = 9999]`
だが、画面に冷酷な赤い文字が弾かれる。
【Syntax Error: Latency too high. Command timed out.】
スマホの静電容量式キーボードでは、入力の遅延(レイテンシー)が大きすぎる。コマンドのコンパイルが間に合わず、信号機はただのノイズとなって霧散した。その間にも、コード・イーターの触手が美咲の胸元へと迫る。彼女の身体の8割が、すでに粗いピクセルに変わっていた。
「カイト……私、消えちゃうの……?」
彼女の瞳から、最後の光が失われかけていた。
(違う。環境をハックするんじゃない。怪物の『核』を直接叩くんだ。一番短い構文で、一撃で消し去る!)
魁人の右目が、コード・イーターの胸の奥に潜む赤く明滅する異常コード――「バグ・コア」のアドレスを特定した。
`[Address: 0x00FF89E2]`
右目が捉えたそのアドレスに向けて、魁人はプロト・ターミナルに指先を叩きつけた。指先が静電気のような激しい電磁痛で焼き切れそうになる。だが、脳波を同期させ、タイピング速度を極限まで引き上げた。
`DEL [target_ID: 0x00FF89E2]`
エンターキーを仮想空間で強打する。
【Command: Delete -- Executing...】
瞬間、魁人の右目から凄まじい衝撃波が走り、コード・イーターの核をピンポイントで貫いた。怪物の輪郭が激しくブレ、絶叫のようなノイズを上げて、ガラスが砕け散るように一瞬で空気中へと霧散した。
その崩壊の光の隙間、魁人は目撃した。交差点の向こうにあるファッションビルの壁が一瞬だけ完全に透過し、その裏側に、無限に続く巨大で冷徹な「物理サーバーラックのホログラム」が整然と並んでいる光景を。この東京という街そのものが、何者かによって維持されている「仮想現実の檻」であるという絶対的な伏線を。
「美咲……!」
魁人は崩れ落ちる光の中へ手を伸ばした。だが、そこに彼女の肉体はなかった。ただ、緑色に明滅する極小のデータオブジェクトの断片だけが宙に漂い、魁人の持つプロト・ターミナルへと吸い込まれていく。
【橘美咲:存在データ回収完了。復元率:15%】
【警告:メモリ領域が逼迫しています】
ハッと気づくと、渋谷のスクランブル交差点は元の喧騒を取り戻していた。信号は青に変わり、人々は再び歩き出している。何事もなかったかのように。
「おい、今の揺れ、何だ?」「ただの突風だろ」
人々は口々に囁きながら通り過ぎていく。魁人は狂ったように周囲を見回した。
「美咲……? 橘美咲を知らないか!? さっきまでここにいたんだ!」
通行人の一人を掴んで問い詰めるが、男は不審そうな顔で魁人の手を振り払った。「誰だよそれ、知らねえよ」
世界から、美咲の存在が完全に忘却されていた。システムによる認知フィルターが、彼女の記憶を一般市民の脳から自動消去したのだ。美咲を覚えているのは、右目が覚醒した魁人だけだった。
その時、魁人の手の中で、プロト・ターミナルが不気味な低周波のノイズを鳴らし始めた。まるで、暗闇の底から魁人を監視する「何か」の視線が、その画面を通じて彼をロックオンしたかのように。
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