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凡庸という名のプロテクト

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ズウゥゥン……と、試験室の空気を満たす重い圧力が、わずかに、だが確実に揺らいでいた。


 三十二階の閉ざされた空間。重力加速度は通常の一点五倍から、魁人のインフラハックによって一点三倍(12.8 m/s²)へと減衰している。這いつくばるプログラマーたちの喘ぎ声が響く中、魁人はデスクに額を押し当て、苦痛に耐える「無能な野良ハッカー」を完璧に演じ続けていた。


 だが、彼の両手はパーカーの黒いポケットの奥に深く突き刺さったままだ。極薄の『超伝導ノイズレス・キーボード』のセンサーに触れる指先は、まるで氷点下の精密機械のように冷徹に、そして静かに踊っていた。


(残りの制限時間は五分。サーバーへのジャミングによる一時的なラグで、重力は落とした。だが、これだけじゃテストはクリアできない。時間内に重力制御プログラムをシャットダウンさせる『修正パッチ』を提出しなければ、不採用……即ち、脳の初期化処分だ)


 魁人の視界の内側――眼鏡のフレームに仕込まれた『バグアイ・バイザー』のレンズには、緑色のグリッドラインが幾何学的に展開されていた。さらにその奥で、魁人自身の脳神経が受信した世界の不具合が、赤く明滅するシステムコードとして浮かび上がる。『バグアイ・スキャン』の起動。


`[Target_Process: seto_shun.gravity_hack]`

`[Status: Active (Latency detected: 120ms)]`

`[Security_Level: Admin Protect Level 2 (Direct delete disabled)]`


 直接アプリを消去(Delete)することは、瀬戸瞬が施した本部のプロテクトによって弾かれる。だが、スキャンを深める魁人の網膜に、瞬のプログラムの「構造」が二進法の構文木として分解されて映し出された。


(……見つけた。重力パラメータを上書きするループ処理の直前に、メモリ解放が不完全な『例外処理(Exception)のホール』がある。ここに特定のバグ修正パッチを割り込ませれば、重力制御サーバーは安全装置(セーフティ)を起動し、アプリを強制終了させる)


 一瞬で最適解を導き出した。秒間五十打鍵を誇る魁人の指先なら、コンマ数秒でその完璧なシャットダウン・コードを記述し、瞬時に重力をゼロに戻せる。


 だが――魁人の指先は、ポケットの奥でぴたりと静止した。


 壇上に立つ瀬戸瞬。彼の顔に装着されたスマートウェア『グラビティ・コア』のインジケーターが、不気味な紫色に明滅している。瞬はスマートグラスを指先でなぞりながら、怪訝そうに試験室の空間を見回していた。


「……おかしいな。重力サーバーの出力に、極微小なパケットロスが発生している。一点五Gの維持率が八六%に低下しているぞ。おい、システム監査ログ(パノプティコン)のログ監視プログラムを最大感度に引き上げろ」


 瞬が空中ディスプレイをスワイプする。


 魁人のバイザーに、新たな警告シグナルが走った。


`[Warning: Active Log Analyzer Detected]`

`[Target: Typing Speed / Code Elegance Profiling]`


 冷や汗が、魁人のこめかみを伝って畳に落ちた。


 瞬の監査システムは、提出される修正コードの「美しさ」と、入力された「タイピング速度」をリアルタイムでプロファイリングしているのだ。もしここで、秒間数十打鍵という神速のブラインドタイピングで、一切の無駄がない『美しい一行の解決コード』を送信すればどうなるか。


 監査システムは即座にそれを「異常な天才ハッカー」の指紋(癖)として検知し、九条麗華の元へアラートを飛ばすだろう。潜入ミッションにおいて、最も安全なプロテクトは「無能」であることだ。瀬戸瞬のようなプライドの高い天才は、泥臭い凡人のコードを精査しようとはしない。


(天才を欺くには、徹底的に『凡人』にならなきゃいけない。書くべきは、エレガントな一行のコードじゃない。あえて冗長で、不格好で、バグだらけに見える……最低のスパゲッティ・コードだ)


 魁人は歯を食いしばり、ポケットの中でタイピングを再開した。


 だが、その打鍵速度は、秒間わずか三打鍵。キーの位置を必死に探し、迷いながら叩いている「素人」の動きを、指の筋肉の収縮レベルで偽装する。


 カチ、……カチ、……。


 実際には打鍵音はゼロだが、システムに記録されるタイムスタンプ(入力時間の間隔)を、意図的にバラバラに遅延させるのだ。


 周囲では、這いつくばるプログラマーたちが次々と限界を迎えていた。脳の演算許容量(RAM)が重力の負荷に耐えきれず、耳や鼻から微出血を起こして意識を失っていく。壇上の瞬は、彼らを「ゴミが淘汰されていくね」と冷酷に笑いながら見下ろしている。


 残り時間は二分。


 魁人の脳内でも、`[RAM Usage: 3.8GB / 4.0GB]`の警告が真っ赤に点滅していた。限界に近い。右目の端には激しいデジタルノイズが走り、首の後ろの『クーラー・ゼロ』は、脳の排熱を吸い込んで物理的に指が触れられないほど熱くなっていた。コード汚染率20%の肉体が、限界を訴えて叫んでいる。


 その時、魁人の指先に、最悪の危機が訪れた。


 複雑な例外処理コードを記述する最中、長年の習慣による「最適化されたショートカットキー」を、指先が無意識に入力しようとしたのだ。ハッカーとしての、肉体に染みついた「癖」。


(――しまっ……!)


 魁人は、ミリ秒単位で指の動きを強制停止させた。その急ブレーキの衝撃が、低温火傷を負った指先に激痛を走らせる。ポケットの中で、魁人の手が微かに痙攣した。


「……ん?」


 瞬の視線が、末端の席で頭を抱えて震えている魁人の背中に向けられた。スマートグラスの照準マークが、魁人の肉体をロックする。


 魁人は、激痛と脳の過熱による脳震盪に耐えながら、額をデスクに叩きつけた。


「う、うぅ……重い……、指が、動かねえ……っ!」


 痛みに喘ぐ、惨めな凡人の悲鳴。それは演技であり、同時に半分は本物の肉体的悲鳴だった。瞬は魁人のその姿を見ると、鼻で笑い、興味を失ったように視線を逸らした。


「なんだ、ただの雑魚か。指の関節すら重力に負けているようじゃ、プログラマー以前の問題だね」


 その隙に、魁人は最後の仕上げに取りかかった。


 彼が構築したパッチコードは、無駄な二重ループ、意味のない変数定義、そして素人が書いたような冗長なコメントアウトで埋め尽くされていた。


c

// 重力を止めるための変数、たぶんこれで動くはず

int aaaa = 100;

for(int i=0; i<aaaa; i++) {

if(system_status == 1) {

// 例外を発生させてみる

throw new Exception("error_gravity");

}

}



 プログラマーが見れば眉をひそめるような、最悪に汚い「スパゲッティ・コード」。だが、その最深部には、瞬のプログラムの例外処理ホールをピンポイントで突くロジックが、泥の中に隠された針のように仕込まれていた。


 魁人は『システムログ偽装(Log Spoofing)』を起動し、この汚いコードの送信ログを「パニックに陥った受験者が、残り時間十秒で適当に送信したエラーパッチ」として上書き偽装した。


 残り時間、十秒。


 魁人はポケットの中で、エンターキーを静かに押し込んだ。


 送信。


 コンマ数秒の後、試験室の天井に配置された重力サーバーが、魁人のスパゲッティコードを受信。例外処理のバグが内部で暴走し、サーバーの安全装置が強制起動した。


 プツン、と試験室を満たしていた鉛のような重力が、一瞬にして完全に消失した。


「え……?」

「重力が、消えた……?」


 生き残った数少なき受験者たちが、解放された身体で息を荒くしながら、床にへたり込んだ。


「何だと……!?」


 壇上の瀬戸瞬が、驚愕してスマートグラスの画面を睨みつける。彼の重力制御アプリが「強制終了(Aborted)」のステータスを示していた。瞬は激怒し、送信された修正ログの解析コードを画面に叩き出した。


「誰だ……! 僕のグラビティ・ハックをシャットダウンさせたのは!」


 瞬のグラスの画面に、魁人の受験者IDと、彼が送信した『汚いスパゲッティ・コード』が表示される。


 瞬は、そのコードのあまりの不格好さに、一瞬だけ呆然とした。無駄なループ、素人同然のコメントアウト。それは、彼が最も軽蔑する「理論も美しさもない、泥臭いだけのゴミコード」そのものだった。


「は……? なんだ、このゴミみたいなパッチは……。こんな、こんな素人の当てずっぽうなバグ修正で、僕のプログラムがエラーを起こしたというのか……!?」


 瞬は怒りに顔を歪めたが、ログのタイムスタンプには「秒間三打鍵の遅い入力」と「焦りによる誤入力の痕跡」が完璧に記録されている。ハッカーとしての天才的な技術の「指紋」は、そこにはミリ単位も存在しなかった。


 瞬は魁人の席を見下ろした。魁人は眼鏡をズレさせ、額に汗を浮かべながら、ゼエゼエと惨めに呼吸を乱して床にへたり込んでいる。


「……フン、本当に泥臭いだけの無能な凡人か。たまたま、僕の例外処理の記述ミスを、デタラメなコードで突いたに過ぎないね。美しさが微塵もない、最悪のパッチだ。……だが、ルールはルールだ」


 瞬は不快そうに舌打ちし、空中ディスプレイの合格ボタンをタップした。


 ピピッ、と魁人のバイザーに、ギガ・コード本社の正規採用通知が届く。配属先は、最下層の『技術部第4開発チーム』。


「合格だよ、ゴミプログラマー。せいぜい、本社の底辺で、僕たちのアプリのデバッグ作業(ゴミ拾い)に一生を費やすといい」


 瞬は冷酷に吐き捨て、試験室から去っていった。魁人は床に這いつくばったまま、安堵の息を漏らす。擬態は成功した。瀬戸瞬の鋭い目を欺き、マフィアの内部へと完全に足を踏み入れたのだ。


 だが、生存の喜びも束の間。


 魁人が立ち上がり、自身のバイザーに蓄積されたシステム監査ログを確認した瞬間――彼の背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。


 瞬の監査サーバーのバックグラウンドログ。その最深部に、魁人がタイピング中に一瞬だけ「指を強制停止させた」あのコンマ数ミリ秒の不自然なラグが、微小な「エラーフラグ(Error Flag)」として、静かに、だが確かに記録されていたのだ。


`[Audit_Log: Latency flag detected at keystroke 104. Profile anomaly score: 1.2%]`

`[Status: Logged and saved to Headquarters Central Frame (Technical Audit Division)]`


 それは、現時点では瀬戸瞬すら気づいていない、ノイズのような微小なログ。だが、そのデータは、本部のより冷酷な監査の目――技術監査官・九条麗華の「パノプティコン」へと、自動的に同期され始めていた。


 魁人の眼鏡の奥の瞳が、恐怖に細まる。


 完璧に見えたプロテクトの裏で、世界システムはすでに、彼という「バグ」を排除するための最初のフラグを、静かに蓄積し始めていた。


(……九条麗華に、このログを見られたら、終わる)


 冷たい汗が、西新宿の鉄のピラミッドの中で、魁人の頬を静かに濡らしていった。

HẾT CHƯƠNG

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