鉄のピラミッドへ
西新宿の夜空にそびえ立つギガ・コード本社ビルは、ネオンの光を吸い込む漆黒の巨塔だった。そびえ立つその姿は、東京の裏社会を支配する「鉄のピラミッド」そのものだ。冷たい雨がコンクリートを叩く中、海藤魁人はフードを深く被り、ビルの巨大なガラスゲートの前に立っていた。
右ポケットの中には、情報屋の元締め「フクロウ」から勝ち取った青い光を放つデジタルカード――『ゲスト・セキュリティ証明書』が収まっている。有効期限は七十二時間。一秒でも過ぎれば、この鉄の要塞は牙を剥き、魁人を「侵入者」として物理的に排除するだろう。
「……行くか」
魁人は小さく息を吐き、ゲートの非接触センサーにカードをかざした。網膜の端に装着した『バグアイ・バイザー』が、瞬時にゲートの制御プログラムを緑色のログで表示する。通常なら、警察の指名手配犯である魁人の生体データが照合された瞬間にアラートが鳴り響くはずだった。だが、魁人はあらかじめ、スマートフォンの近距離無線通信を応用した『セキュリティ・バイパス』を起動させていた。
ゲートの認証判定を定義するソースコードが魁人の脳内ターミナルに展開される。`[User_Status: Authorized]`――判定を「常にTrue」に書き換える極小のパッチコードが、ゲートの電子錠を音もなく解き放った。LEDが赤から緑へと切り替わり、ガラス扉が滑らかにスライドする。物理的な破壊痕跡を一切残さない、完璧な侵入。魁人は静かにビルの内部へと足を踏み入れた。
大理石のエントランスは不気味なほど静まり返り、冷たい空調の音だけが響いていた。表向きは日本最大のITメガコーポ。だがその実態は、世界の物理法則を改ざんする異能者たちのマフィア中枢だ。魁人は外注のシステム保守員を装い、案内ホログラムに従ってエレベーターに乗り込んだ。目指すは三十二階。だが、エレベーターが上昇する最中、スピーカーから無機質な合成音声が流れた。
『――警告。新規外注保守員、生体ID:海藤魁人。本日の社内セキュリティ規定に基づき、技術部門の「適性スクリーニング」へルートを変更します。エレベーターは三十二階・技術開発エリアへ直行します』
「チッ……!」
魁人は舌打ちした。単なる物理的な保守作業で潜り込むはずが、組織の自動防衛システムが「未テストの外部人員」を検知し、強制的に選別プロセスへと引きずり込んだのだ。退路は遮断された。エレベーターの制御盤をハックして止めることもできたが、今のメモリ上限である「4GB」では、本社の基幹システムと正面から同期すれば一瞬で脳が過熱(RAMオーバーフロー)し、脳死に至る危険がある。
チィン、と軽い電子音が鳴り、扉が開いた。
そこに広がっていたのは、窓のない巨大な半球形の試験室だった。壁一面に敷き詰められたサーバーラックが青い放電を繰り返し、中央には数十台の無機質なデスクが並んでいる。すでに部屋には、裏社会から集められたと思われる、血色の悪いプログラマーやハッカーたちが二十人ほど、怯えた表情で椅子に座らされていた。
「おい、また一人『ゴミ』が増えたぞ」
冷酷な、しかしどこか幼さの残る声が、試験室の壇上から響いた。魁人が視線を向けると、そこに立っていたのは、仕立ての良いギガ・コードのエリート制服を纏った金髪の少年だった。年齢は魁人と同じ十七歳前後。だが、その肩に輝くバッジは、彼が本部のエリート開発者であることを示していた。瀬戸瞬。重力を操る異能アプリケーション「グラビティ・ハック」を自作した、技術部門の若き天才だ。
瞬は壇上に浮かぶホログラムディスプレイを冷たい目で見下ろしながら、退屈そうに指先で自身のスマートウェア「グラビティ・コア」を弄んでいた。
「ギガ・コードに潜り込もうとする野良ハッカーども、歓迎するよ。もっとも、僕から言わせれば、戦闘能力も持たないプログラマーなんて、ただの『動くゴミ』だけどね。僕たちの総帥、天馬様が創り出す新世界には、優秀なシステムの一部になれる人間しか必要ないんだ」
瞬の言葉に、受験者たちの間に緊張が走る。魁人は眼鏡の奥の目を細め、静かに末端の席へと腰掛けた。左腕にはまだ、前回の戦闘によるコード汚染率20%の微小な痺れが残っている。タイピングの反応速度に影響が出ないよう、魁人は深く呼吸を整えた。
「テストは簡単だ」瞬は冷酷な笑みを浮かべ、宙に手をかざした。「今から、僕が開発した重力制御アプリを起動する。試験室全体の重力パラメータを上書きし、通常時の『一点五倍』に設定する。制限時間は十分。この重力圧迫に耐えながら、僕のプログラムの脆弱性を突き、システムをシャットダウンさせてみせろ。不合格者は採用見送り――すなわち、脳の初期化(デリート)処分だ」
その宣告と同時に、瞬がディスプレイの「実行(Run)」ボタンをタップした。
ドン、と凄まじい物理的な衝撃が、魁人の全身を襲った。空気が一瞬にして鉛のように重くなり、肺から酸素が強制的に押し出される。周囲のプログラマーたちが「ぐっ……!」と短い悲鳴を上げ、次々とデスクに這いつくばった。重力加速度1.5G。生身の人間にとっては、腕を上げるだけでも激しい筋肉の痛みを伴う極限の圧迫だ。物理的にキーボードを叩く指が、まるでセメントで固められたかのように重い。
「あはは! どうしたの? キーボードに触ることもできないのかい?」瞬は涼しい顔で、重力の影響を全く受けていない壇上から受験者たちを見下ろして嘲笑う。彼のスマートウェアが、周囲の重力を局所的に相殺しているのだ。
魁人は呼吸を支配する物理パラメータが狂っているのを肌で感じていた。Gの負荷で、首の後ろに貼った『クーラー・ゼロ』が物理的に熱を帯び始める。脳のメモリ(RAM)が、この空間の異常を解析するために勝手にリソースを消費しているのだ。
(くそ、体が重い……。まともにタイピングすらさせない気か)
魁人はバイザーのスイッチをオンにした。視界が瞬時に緑色のグリッドで満たされ、空間を流れる重力パラメータの数式が赤いノイズとなってスクロール表示される。
`[System_Parameter: Gravity = 14.7 m/s²]`
通常の9.8m/s²から、正確に1.5倍に書き換えられている。このパラメータを定義しているのは、試験室の中央サーバーだ。魁人はまず、脳内ターミナルから直接、瞬の重力アプリケーションそのものを消去(Delete)しようと試みた。ホログラムキーボードを脳内で投影し、消去コマンドを入力する。
`delete seto_shun.gravity_hack̀
だが、エンターキーを叩いた瞬間、網膜に冷たい血のような赤色のアラートが弾けた。
`[Access Denied: Administrative Protection Level 2]`
(やっぱりダメか……。本部のサーバーは、監査部や九条麗華のプロテクトで厳重に保護されている。現在の4GBのメモリ容量で無理に暗号を解読しようとすれば、解読が終わる前に俺の脳が焼き切れる)
それに、もしここで完璧な脆弱性パッチを当てて重力を一瞬で「ゼロ」にすれば、瀬戸瞬は即座に魁人を「ただの凡人ではない」と認識し、正体が九条麗華に伝わるだろう。潜入ミッションにおいて、最も安全な防壁は「無能」であることだ。魁人は、自分の天才的な実力を隠しつつ、この重力を解除しなければならなかった。
(直接瞬のコードを書き換えるんじゃない。あたかも『システムのエラー』で重力が弱まったように見せかける……。擬態としての最適解は、インフラの破壊だ)
魁人はバグアイの視線を、試験室の隅にある「物理ロックゲート」の制御盤へと向けた。あのゲートの通信モジュールは、重力サーバーと同じローカルネットワークハブを共有している。魁人は両手を黒いパーカーのポケットに突っ込み、チヨ婆から譲り受けた『超伝導ノイズレス・キーボード』の極薄センサーに指を走らせた。
チクタク、チクタクと、試験室の壁の時計が秒針を刻む音が聞こえる。魁人はその物理的なリズムに指の動きを同期させ、衣服の繊維が擦れる極小の音すらもカモフラージュしながら、打鍵音ゼロの「ポケット・ブラインドタイピング」を開始した。
狙うは、物理ゲートのセキュリティコードだ。ゲートの制御プログラムに侵入し、大量の偽の「解錠要求パケット」を無限ループで送信(ブロードキャストストーム)する。ネットワークスイッチに過大な処理負荷(ラグ)をかけ、重力サーバーへの通信帯域を物理的に狭めるのだ。
魁人の指先が、ポケットの中で静電気の火花を散らす。秒間五十打鍵。脳内ターミナルに、インフラハックの構文がロジカルに構築されていく。
`while(true) { send_packet(gate_controller, loopback); }`
重力1.5倍の圧迫が、魁人の肋骨を締め付け、呼吸が浅くなる。視界の端で`[RAM Usage: 3.2GB / 4.0GB]`の警告が黄色く明滅する。脳が過熱し、右目の端に再びデジタルノイズが走り始めた。だが、魁人はポーカーフェイスを維持したまま、床に這いつくばって苦しむ他のプログラマーたちのフリをして、デスクに額を押し当てた。
(走れ……! 通信をジャムらせろ!)
コンマ数秒の後、試験室の隅にあるネットワークハブのLEDインジケーターが、異常な高速明滅を開始した。大量のダミーパケットが通信回線を埋め尽くし、重力サーバーへの信号伝達に「遅延(ラグ)」が発生する。
フッ、と魁人の身体にかかる重い圧力が、微かに和らいだ。バイザーの重力数値が、14.7m/s²から12.8m/s²へと低下する。1.5Gから1.3Gへの、微小な減衰。這いつくばっていた受験者たちの一部が、驚いたように顔を上げた。
「あ、あれ……? 少し、軽くなった……?」
「おや?」
壇上の瀬戸瞬が、怪訝そうに眉をひそめた。彼は手元のスマートグラスを調整し、サーバーの出力ログを確認し始める。その鋭い監視の瞳が、重力の低下が単なる「回線のエラー」なのか、それともこの部屋の誰かが意図的に仕掛けた「ハック」なのかを、冷酷に分析し始めようとしていた。魁人は心拍数を平坦に保ちながら、ポケットの中で静かに次のコマンドのキーに指をかけた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!