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静かな打鍵音

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チクタク、チクタク、チクタク――。


不揃いな機械式時計の針が、狂ったような速度で時を刻んでいる。歌舞伎町の地下深く、闇の元締め「フクロウ」のアンティークルーム。部屋の四壁を埋め尽くす数百もの時計が放つ物理的な振動音が、魁人の鼓動を急き立てるように部屋中に反響していた。


真空管ディスプレイに表示された青いデジタル数字が、非情にカウントダウンを進めていく。


『09:59』


「条件は言ったはずだ、ガキ」

フクロウは革のソファに深く背を預けたまま、濁った白い両目を魁人のほうへと向けていた。「タイピングの音を一切立てずに、あのスマート自販機と監視カメラをハックしろ。コンマ一デシベルでも私の耳が音を拾えば、その瞬間に影山がお前の首を跳ねる」


部屋の入り口に立つ影山が、懐の電磁ナイフに手をかけ、冷酷な笑みを浮かべた。魁人の額から、冷たい汗が一本、頬を伝って流れ落ちる。


(やるしかない……。詩織の治療薬を手に入れるための『ゲスト・セキュリティ証明書』は、何が何でもここで掴み取る)


魁人はゆっくりと両手を黒いパーカーのポケットに突っ込んだ。その袖口の奥、指先が触れたのは、冷たい金属の質感――『超伝導ノイズレス・キーボード』だ。


この無謀極まりない無音テストを突破するため、魁人はフクロウの元を訪れる数時間前、秋葉原の闇に潜んでいた。


秋葉原の路地裏、高架下の薄暗いジャンク街。湿った排気熱とハンダの匂いが立ち込めるその一角に、「秋葉原ジャンクブローカーギルド」の長老格である老婆・チヨの店はあった。

「おいおい、誰かと思えば哲也のせがれじゃないか」

拡大鏡を跳ね上げ、赤く光るサイバーアイで魁人を凝視したチヨは、半田ごてを置いて不敵に笑った。彼女はかつてギガ・コードの初期エンジニアであり、魁人の亡き父・哲也の数少ない理解者だった。

「その目、その立ち姿……哲也にそっくりだ。あいつも昔、無茶なハッキングの前にそんな尖った目をしていたよ。……お前が今、何に追われ、何をしようとしているかは聞かない。だが、これを持っていきな」

チヨが埃をかぶった棚の奥から取り出したのは、ボルトが魔改造を施したという超薄型の特殊キーボードだった。物理的なスイッチが存在せず、指先の微小な静電気を感知して入力を行う、完全消音仕様のデバイス。

「『超伝導ノイズレス・キーボード』さ。打鍵音は完全にゼロ。だが、いいかい、魁人。人間の指が動く時、衣服の繊維や皮膚の摩擦で必ず微小な物理音が発生する。それをどう隠すかがハッカーの腕の見せ所だよ」


チヨの言葉が、今、魁人の脳裏に蘇る。


『08:42』


(指先の静電気を同期させる。呼吸をフラットに保て……)

魁人はパーカーのポケットの内部で、キーボードのセンサーに指を触れさせた。視界の端に浮かぶ「バグアイ・バイザー」のディスプレイが、緑色のシステムログを静かにスクロールし始める。


ハックの標的は、三ブロック先、歌舞伎町の路地裏に設置されたギガ・コード製のスマート自販機。そして、その上部からストリートを監視する顔認証スキャンカメラだ。


魁人の指先が、ポケットの中で超高速で動き始める。秒間四十打鍵。脳内ターミナルに直接コードが入力されていく。だがその瞬間――


「フッ……」

微かな衣擦れの音。魁人の指先が放った静電気の摩擦が、パーカーのナイロン繊維と擦れ合い、極小の「ササッ」という音を立てた。

その瞬間、フクロウのデスクに置かれたアナログ集音マイクのインジケーター針が、ピクリと右に振れた。フクロウの耳が不気味にピクリと跳ねる。


(しまっ――!)

魁人は即座にタイピングを停止した。背後で、影山がナイフの起動スイッチに指をかける金属音が聞こえる。カウントダウンは無情にも進み続ける。


(ただ静かに叩くだけじゃダメだ。繊維の摩擦音すら、この部屋の『環境音』と同調させなければ見破られる)


部屋中に響き渡る、無数の機械式時計の「チクタク」という重い金属音。魁人はバイザーのオーディオアナライザーを起動し、時計の秒針が刻む物理的な周波数をスキャンした。


チク――タク――、チク――タク――。


(このリズムだ。時計の針が物理的に噛み合う『チク』の瞬間に指を滑らせ、『タク』の瞬間に次のキーを押す。部屋の物理振動のノイズに、私のタイピング音を完全にマージ(結合)させる!)


魁人は再び指を動かした。今度は、部屋の時計の音と完全に同期した「ポケット・ブラインドタイピング」だ。時計の秒針が音を立てるそのコンマ数ミリ秒の隙間に、指先の静電気摩擦を完全に隠蔽する。

集音マイクのインジケーターは、今度はピクリとも動かない。完全な無音。フクロウは静かに目を閉じ、耳を澄ませたままだが、魁人のハッキングを感知できていない。


『05:12』


接続は確立された。魁人はスマートフォンの近距離無線通信(NFC)を改造したデバイス「コイン・ドロッパー」の信号を遠隔で射出し、対象のスマート自販機のメインコントローラーへと侵入した。自販機の上部にある広角カメラの映像をダミーのループ映像に書き換え、視界の掌握を完了する。


次に、自販機の物理エンジンへとハッキングコマンドを送り込む。決済システムを改ざんすれば、本部の九条麗華の監査プログラムに即座に検知される。魁人が狙ったのは、商品の物理的な質量パラメータだった。


「質量データを上書きする」


魁人の指先が、時計の「チクタク」に合わせて最後のコマンドを叩き込む。


`set canned_coffee.mass = 0`


質量を一時的にゼロに書き換える『コイン・ドロッパー(質量ハック)』。自販機の排出口内部に設置された物理重量センサーは、缶が落下したことを「重さ」で感知している。質量がゼロになった缶コーヒーは、センサーを通り抜けても重量が検知されない。つまり、自販機のシステムは「商品を排出しようとしたが、まだ缶が落ちていない(在庫が詰まっている)」と誤認するのだ。


ガコン、ガコン、ガコン、ガコン――!


歌舞伎町の路地裏で、スマート自販機の取り出し口から、質量を失った缶コーヒーが重力を無視するように無限に溢れ出し、転がり始めた。システムはエラーを検知せず、ただ機械的に「再排出」のループを実行し続ける。


『03:00』


「ボス……」

影山のスマートフォンに、現地を監視していた部下から信じられない報告が入った。影山の顔から笑みが消える。「……三ブロック先の自販機から、缶コーヒーが無限に吐き出されています。警察のプロビデンス網にも、ギガ・コードの監査システムにも、一切のアラートが上がっていません。完全に……無風でのハックです」


フクロウの部屋のカウントダウンが、そこでピタリと停止した。


静寂が部屋を支配する。ただ、アナログ時計のチクタクという音だけが響いていた。

フクロウはゆっくりと目を開け、その真っ白な瞳に驚嘆の色を浮かべた。そして、地を這うような低い声で、クスクスと笑い始めた。


「見事だ、ガキ。まさか、部屋の時計の音にタイピングを同調させ、自販機の重量センサーの物理バグを突くとはな。……哲也の息子だけのことはある。お前のハッキングは、単なるデータの改ざんではない。世界の物理そのものを騙す『デバッグ』だ」


フクロウは革のソファから立ち上がり、机の引き出しから一枚の青く光るデジタルカードを取り出した。そして、それを魁人に向けて滑らせる。


「約束だ。ギガ・コード本社の外注システム保守員としての『ゲスト・セキュリティ証明書』をくれてやる。……だが、忘れるなよ、魁人。そのピラミッドの頂上にいる天馬黎は、この世界が『プログラムされた偽り』であることを、お前以上に理解している怪物だ」


魁人はポケットから手を出し、静かにカードを拾い上げた。指先は静電気の負荷で微かに震え、首の後ろの『クーラー・ゼロ』は完全に熱を帯びていたが、彼の右目のバイザーには、本社潜入への最初のゲートが開いたことを示す緑色のログが、確かに灯っていた。

HẾT CHƯƠNG

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