黒い遺品と梟の試練
激しい豪雨が、歌舞伎町のビル群を濡れた黒い墓標のように変えていた。ネオンの毒々しい光が、水溜まりに溶けては歪んだ二進法のグリッチのように明滅している。
「――心拍数、低下。脳波ノイズ、危険閾値内。……持ちこたえてくれ、詩織」
サカグチ診療所の最深部、物理隔離された地下二階の無菌病室。強化ガラスの向こうで、海藤詩織は無数の明滅する電極に繋がれ、微かな呼吸を繰り返していた。彼女の頭部に装着されたホログラフィック・モニターには、青白い脳波の波形が走っている。だが、その波形は時折、まるでデジタルノイズのようにカクカクと不自然に角張り、データ的なフリーズを引き起こしていた。バグドラッグ「タイプ・レッド」の副作用が引き起こす奇病――「データ拒絶症」の末期症状だ。
「小僧、見ての通りだ」
白衣の袖を捲り上げ、無骨なサイバーアームを剥き出しにしたドクター・サカグチが、タバコの煙を吐き出しながら冷酷な現実を突きつけた。彼の義眼が赤く光る。
「俺の闇医療機器とナノマシン抑制剤で、脳の完全なデータ化(死)は一時的に食い止めている。だが、それも持ってあと二十四時間だ。彼女の脳細胞が現実の『解解像度』に耐えきれず、完全にフリーズすれば、精神は虚無(Null)に消える。根本治療には、ギガ・コードが独占している純正の『クリーン・コード(解毒データ)』を脳神経に直接流し込むしかない」
「分かっている。だから、俺が奴らの牙城に潜り込む」
魁人はきつく唇を噛み締め、パーカーのポケットから一本の黒い金属製のUSBメモリを取り出した。黒岩刑事が殉職の間際に遺した、世界システム「プロビデンス」の深部へアクセスするための『マスターアクセスキー』。その表面には、まだ黒岩の乾いた血痕が黒ずんで付着していた。
魁人は震える指で、そのUSBをポータブル端末に物理接続した。青いホログラムが展開されるが、表示されたのは無慈悲なエラーログだった。
`[Access Denied: Mainframe Connection Required]`
`[Security Protocol: Level 4 Lock]`
「ダメか……。本部のメインフレームに直接有線接続しなければ、この中のデータは解放されないプロテクトが敷かれている」
魁人が絶望に胸を締め付けられたその時、端末のスピーカーから、ざらついた高周波のノイズと共に、聞き慣れた泥臭い声が流れた。黒岩の生前に録音された、暗号化ボイスログ――『レガシー』の断片だった。
『――魁人、お前がこれを聴いているということは、俺はもう物理的にデリートされた後だな』
「黒岩さん……」
『泣き言を言うなよ。お前のハッキングの才能は、こんな歪んだ世界を人間らしく生き抜くためにある。システムに飼い慣らされるな。バグを恐れるな。お前なら、この世界の不具合を修正(デバッグ)できるはずだ。……必ず、詩織を救い出せ。泥を啜ってでも、生き残れ』
ボイスログはそこで途切れ、再び無機質なノイズに戻った。しかし、その泥臭い説教は、冷めかけていた魁人の心臓の奥に、消えない青い火を灯した。魁人はUSBを握りしめ、サカグチを振り返った。
「ドクター。ギガ・コードの本社に『下っ端プログラマー』として潜入する。奴らの内部データベースから解毒データを盗み出し、同時に黒岩さんの仇を討つ。……そのために、まずは完璧な偽装身分証が必要だ」
サカグチはタバコを床に踏み消し、フッと鼻で笑った。
「ギガ・コードのセキュリティ監査は九条麗華の管轄だ。生半可な偽造IDじゃ、ゲートをくぐった瞬間に脳を焼き切られるぞ。……歌舞伎町のゴールデン街の奥に、電波の完全に届かない死角『ノイズ・アレイ』がある。そこを仕切る情報屋の影山を中継して、闇の元締め『フクロウ』に会え。あいつなら、本部のメインフレームすら欺く『ゲスト・セキュリティ証明書』を偽造できる」
「フクロウ……」
「ただし、あいつは金じゃ動かない。人間を『利用価値』だけで判断する盲目の怪物だ。覚悟して行け、小僧」
魁人はフードを深く被り、サカグチ診療所の地下から嵐の地上へと這い出た。雨水が眼鏡のレンズを濡らし、バイザーの緑色のスキャン画面がノイズを帯びて歪む。右目の端には、未だに「汚染率20%」の赤い警告が明滅していたが、首の後ろに貼った『クーラー・ゼロ』の冷気が、かろうじて脳の過熱を抑え込んでいた。
ゴールデン街の狭い路地裏、室外機とゴミ箱に囲まれた狭いデッドスペース「ノイズ・アレイ」。そこには、顔の右半分に青く光るデジタルタトゥーを入れた情報屋、影山聡が壁に寄りかかって待っていた。
「よぉ、指名手配犯のハッカー坊主」
影山は不敵な笑みを浮かべ、手に持った暗号化メモリチップを弄んだ。彼の周囲だけ、Wi-Fiの電波が完全に遮断され、スマートフォンの画面が「圏外」を示している。完全な電波の死角。
「サカグチから話は聞いてる。盲目の老いぼれ『フクロウ』のところへ案内してやるよ。だがな、あそこに入ったら、余計な嘘は一切通用しない。……お前の命の保証はしないぜ」
影山は踵を返し、一人が通るのがやっとの、湿ったコンクリートの地下階段を降りていった。魁人は無言でその後ろを追った。湿気とカビ、そして古い潤滑油の匂いが鼻を突く。突き当たりにある錆びた鋼鉄の扉を、影山が特定のパターンで物理的にノックした。
重い金属音が響き、扉がゆっくりと内側へ開く。
そこは、現代の東京とは思えない、異様な空間だった。壁一面に配置された数百個のアナログの機械式時計が、チクタク、チクタクと不揃いなリズムで秒針を刻んでいる。部屋の中央には、埃をかぶった古い革製のソファがあり、そこに両目が真っ白に濁った盲目の老人――「フクロウ」が静かに腰掛けていた。老人の周囲には、骨董品のような真空管式の受信機や、剥き出しの基板が散乱し、異様な威圧感を放っている。
「影山か。……それと、招かれざるネズミが一匹」
フクロウは顔を動かさず、ただ白い瞳を魁人の方へと向けた。その声は地を這うように低く、部屋中の時計の音が一瞬だけ遠のいたように感じられた。
「心拍数110、呼吸は浅く、指先が微かに震えている。……警視庁組織犯罪対策課がプロビデンスの全網を使って追っている、黒岩のガキだな」
魁人は息を呑んだ。盲目であるはずの老人は、魁人が一言も発する前に、その生体音だけで正体を見抜いていた。フクロウの部屋に設置された超高感度のアナログ集音マイクが、魁人の心臓の鼓動を完全に拾い上げ、古い波形モニターに表示していたのだ。裏社会の「嘘」を看破する、物理的な嘘発見器。
「フクロウさん。俺はギガ・コードに潜入しなければならない。本社の監査システムを突破できる『ゲスト・セキュリティ証明書』を売ってほしい」
魁人は一歩踏み出し、ポケットから黒岩のUSBメモリを示した。その手元が、老人の白い眼球に映る。
「黒岩の遺品か……。あの男は、この歌舞伎町の泥の中でも『人間らしさ』を捨てなかった数少ない馬鹿だった」
フクロウは深く溜息をつき、革のソファに背を預けた。時計のチクタクという音が、魁人の鼓動を急かすように大きく響く。
「だが、お前はただの十七歳の子供だ。ハッキングの腕が多少立つからと、マフィアの総帥・天馬の檻に自ら飛び込もうとする自殺志願者だ。口先だけのガキに、我が組織の最高傑作である偽装身分証を渡すわけにはいかん。……お前に『利用価値』があるか、ここで試させてもらう」
フクロウは不敵な笑みを浮かべ、痩せ細った指先で、机の上の古いアナログスイッチをパチリと倒した。
「歌舞伎町の第三ブロックの角に、ギガ・コードが管理する最新鋭のスマート自販機と、広角顔認証スキャンカメラが設置されている。……今から十分以内だ。その自販機をハックし、カメラの視界を完全に掌握してみせろ」
「それくらいなら、今ここで――」
「遮るな、ガキ」
フクロウの白い目が、怪しく光ったように見えた。彼は耳を指差す。
「条件がある。……タイピングの音(クリック音)を、一切立てずに実行しろ。私の耳は、コンマ一デシベルの打鍵音すら逃さない。キーボードの音が一度でもこの部屋の集音マイクに響けば、その瞬間にテストは不合格。影山がお前の首を跳ねる。……生身のハッカーとしての真価、見せてもらおう」
部屋の古い真空管ディスプレイが、青い文字で「09:59」とカウントダウンを開始した。
魁人の背中に、冷たい汗が伝った。打鍵音を一切立てずに、周囲の最新鋭監視網を十分以内に完全掌握する。それは、物理的な「指先」の隠密技術と、極限の精神集中を要求する、絶対無理な試練だった。
(やるしかない。……詩織の命は、この指先に懸かっている)
魁人はゆっくりと両手を黒いパーカーのポケットに入れ、袖口の奥に隠された『超伝導ノイズレス・キーボード』の極薄の静電気センサーに、そっと指先を滑らせた。
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