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セント・マリアンヌの陥落

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土砂降りの雨が、西新宿の夜を塗り潰していた。ネオンの光がアスファルトに反射し、まるで引き裂かれた回路基板のように不気味に蠢いている。


 海藤魁人はフードを深く被り、聖マリアンヌ記念病院の前に立っていた。白く無機質な巨塔。橘財閥の資金によって建設されたこの最先端病院は、表向きは一流の医療機関だが、その実態はギガ・コード渋谷支部――神崎派が支配する「デジタルの檻」だった。病室の隅々まで国家監視システム『プロビデンス』と同期した防衛網が敷かれ、獲物の呼吸一つすら逃さない。


「……あと、二十四時間もない」


 魁人は耳の奥の骨に貼り付けた超薄型骨伝導レシーバー『ゴースト・トーク』に触れた。耳の奥に、雨音を切り裂くようにアリスのハスキーな声が響く。


『接続確立。魁人、マリアのデータベースにアクセスするよ。準備はいい?』


「あぁ、いつでもいける」


 魁人が眼鏡――『バグアイ・バイザー』のフレームをタップすると、視界が瞬時に緑色の幾何学的なグリッドに覆われた。病院の物理セキュリティ、監視カメラの視認範囲、そしてシステムを流れるパケットデータが、光の糸となって虚空に浮き上がる。


 正面玄関の受付端末に表示されているのは、金髪の聖母を模した3DアバターAI、偽装アカウント「マリア」だ。マリアは病院全体の患者データを管理し、不審なアクセスを常時監視している。


「マリアの例外処理ゲートに、アリスが仕込んだエクスプロイトを流し込む。……タイピング開始」


 魁人はポケットの中に手を突っ込み、袖口に隠した『超伝導ノイズレス・キーボード』を叩き始めた。打鍵音は完全なゼロ。秒間四十打鍵を超える指先の運動が、マリアのソースコードに直接干渉していく。


`[System Command: bypass_auth --target=Maria_AI]`

`[Status: Executing Exception Handling...]`


 マリアのアバターが一瞬だけ青くグリッチし、その網膜の奥のコードが書き換わった。魁人が事前に仕込んでおいた「マリア・コード」が起動し、詩織の入院記録を「死亡退院」という偽のステータスに上書きする。同時に、詩織が幽閉されている最上階・特別隔離病棟の監視カメラ映像が、三分間のループ映像へと差し替えられた。


『マリアの認証バイパスに成功! カメラはループに入ったよ。猶予は三分。急いで!』


 アリスのナビゲートに従い、魁人は静かに正面ゲートをすり抜けた。白く消毒液の匂いが立ち込める廊下は、不気味なほど静まり返っている。魁人はエレベーターをハックし、最上階へと直行した。


 隔離病室の重厚な電子ロックのスマートドアの前に立つ。バイザーを起動し、ロックの真偽値(boolean)をスキャンする。


`[Door_Lock: True]`


「消えろ、ロック判定」


 ポケットの中のキーボードが滑らかに動く。`set door_lock = Falsè。電子音が静かに鳴り、重い鋼鉄の扉がスライドして開いた。


 病室のベッドの上には、頭部にホログラフィックな脳波ノイズモニターを装着された少女――実妹の海藤詩織が横たわっていた。青白い肌、虚ろな瞳。彼女の脳は、ギガ・コードのバグドラッグ実験の毒性プログラムによってフリーズしかけている。


「詩織……迎えに来た」


 魁人は彼女の細い身体を抱き起こし、用意していた搬送用の車椅子へと乗せた。詩織の身体は驚くほど軽く、そして冷たかった。


「お兄……ちゃん……?」


「もう大丈夫だ。静かにしていてくれ」


 詩織を車椅子に固定し、部屋を出ようとしたその瞬間、魁人のバイザーに真っ赤なシステムアラートが走った。


`[Warning: Emergency Exception Triggered by Infrared Sensor]`


「しまっ――!」


 馬場警部補が仕掛けた隠し赤外線センサーが、詩織の物理的な移動を検知したのだ。静かだった廊下に、赤いパトライトが音もなく点滅し始める。サイレンは鳴らない。だが、それは「静かなる制服部隊」の襲撃を意味していた。


『魁人、最悪! 馬場が手配したSAT部隊がすでに病院内に展開してた! エレベーターも階段も物理ロックされたよ!』


 廊下の両側から、重厚なブーツの足音が響いてくる。逃げ道は完全に塞がれた。


 角から姿を現したのは、全身を黒いタクティカルアーマーで包み、アサルトライフルを構えた警視庁特殊部隊(SAT)の面々だった。その中央で、冷酷な指示を出す四十代の男――指揮官の大河原剛が、魁人に銃口を向けた。


「対象を確認。容赦は不要だ。射撃開始(デリート)」


 馬場宗二の「発見次第、射殺しろ」という汚い命令が、大河原の冷徹な声を通して実行に移される。威嚇射撃すらない。無数の銃口から、一斉に火花が散った。


「アリス、廊下のスプリンクラーをハックして視界を奪ってくれ!」


 魁人は叫びながらキーボードを叩いた。しかし、バイザーの画面に無慈悲なエラーコードが返される。


`[Error: Sprinkler Control Panel Physically Locked. Access Denied.]`


 物理的なロック。ハッキングが通用しない。飛来する実弾の雨が、魁人と車椅子の詩織へと迫る。


(コンパイルで物理防壁を作るメモリはない。今の俺の限界は4GB。防壁を構築した瞬間に、俺の脳がオーバーフローして死ぬ……!)


 魁人は詩織の車椅子を自身の背中で庇うように覆いかぶさった。そして、バイザーの『バグアイ・スキャン』を極限まで稼働させる。


 世界が、二進法のスローモーションへと減速していく。空気の分子を切り裂いて迫る鉛の弾丸。その一本一本の軌道が、不気味に発光する赤い『軌道予測線』として魁人の網膜に描画された。


(弾丸の運動エネルギーをゼロにするにはメモリが足りない。だが――弾丸と俺の肉体の『衝突判定(Collision)』の変数だけをピンポイントで消去すれば、最小限のメモリ消費で弾を透過できる!)


 魁人の脳内ターミナルが限界まで加速する。首の後ろの『クーラー・ゼロ』が限界を超えて熱を帯び、液体窒素の冷却機能が悲鳴を上げた。空中に投影された青い『ホログラフィック・キーボード』。魁人の指先が、光速の残像となってキーを叩き伏せる。


「消えろ――衝突判定(コリジョン)!」


`set bullet[0..15].collision = Null̀


 弾丸が魁人の背中に接触する、コンマ数ミリ秒前。


 絶対回避スキル『ノー・コリジョン』が起動した。魁人の背中が、青いデジタルグリッチのノイズを纏って激しくブレる。次の瞬間、肉体を貫くはずだった実弾が、まるでホログラムを通り抜けるように、魁人の背中を透過して前方へと抜けていった。弾丸は車椅子の詩織にも触れることなく、前方の白い壁に突き刺さり、コンクリートの破片を飛び散らせる。


「なっ……!?」


 大河原剛の冷酷な表情が、驚愕へと凍りついた。SAT部隊の隊員たちも、引き金に指をかけたまま硬直する。弾丸が人間を「透過」した。あり得ない物理現象を前に、彼らの論理思考がフリーズしたのだ。


「がはっ……!」


 魁人の口から、鮮血が床へと滴り落ちた。耳の奥から熱い血が流れ、骨伝導レシーバーが血濡れていく。一度に4GBのメモリを消費するノー・コリジョンの連発。脳が沸騰し、ニューロンがデータに書き換わっていく劇痛が魁人を襲う。視界の半分が赤いエラー警告で埋め尽くされた。


`[Warning: RAM Usage 99%. Critical Neuro-contamination: 20%]`


 だが、魁人はタイピングを止めなかった。敵が恐怖と混乱で硬直している、このわずか一秒の隙を逃せば、次の一撃で詩織が死ぬ。


「防火扉のロックを……上書き(オーバーライド)する!」


 魁人は震える指で、廊下の天井に設置された緊急用防火扉の制御盤をハックした。


`set fire_door.lock = Truè


 ズドォォォン!!


 重厚な鋼鉄の防火扉が、大河原たちSAT部隊の目の前で猛烈な勢いで降下し、通路を物理的に完全に遮断した。扉の向こうから、激しい銃撃の振動と、大河原が怒号を上げる声が響くが、鋼鉄の障壁を突破するには時間がかかるはずだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 魁人は激しい眩暈に耐えながら、詩織の車椅子を押し、非常階段へと走り出した。脳内温度が急上昇し、意識が遠のきかける。


『魁人! 生きてる!? 今、サカグチのバンが病院の裏口に待機してる! でも、正面玄関の駐車場に馬場が手配した警察の追跡車両が配置された! このままじゃ脱出してもすぐに包囲される!』


「アリス……病院の外壁にある、ハック済みのドローン『3号』を……」


 魁人は非常扉を蹴り開け、雨が吹き荒れる病院の裏庭へと滑り出た。夜空を見上げると、赤いセンサーライトを明滅させる警備ドローン「3号」が滞空している。


「自爆コマンドを……ブロードキャストしろ」


 魁人はホログラムキーボードに最後の力を振り絞り、エンターキーを叩きつけた。


`execute drone_03.self_destruct()`


 ドローン「3号」が、激しい雨を切り裂いて急降下し、正面駐車場に待機していた警察の追跡車両の群れの真ん中へと突撃した。


 直後、夜の闇を黄金色の爆炎が引き裂いた。大爆発の衝撃波と、強力な電磁パルス(EMP)が、馬場の手配した車両の電子基板を一瞬で焼き切り、タイヤを物理的に吹き飛ばす。


 その爆風を背に浴びながら、魁人は激しく咳き込み、詩織を抱えてサカグチの黒いバンの後部座席へと滑り込んだ。


「よくやった、小僧。……だが、限界だな」


 運転席のサカグチがアクセルを強く踏み込み、バンはネオンの雨の中へと急加速して逃走した。魁人は車椅子の詩織の手を握りしめたまま、自身の脳がメモリオーバーフロー寸前の熱を発しているのを感じていた。視界が急速に暗転していく。


 詩織のバイタルモニターの数値が、不気味に低下し始めていた。猶予はない。彼女を救うための「解毒データ」を手に入れなければ、この脱出すら無意味になる。新たなタイムリミットのカウントダウンが、意識を失いかける魁人の網膜に、冷酷に刻まれていた。

HẾT CHƯƠNG

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