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デバッガーの武装

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「――あと三十六時間」


 魁人はサカグチ診療所の地下二階、薄暗い隔離室の片隅で、自身の安物眼鏡をバラバラに分解していた。豪雨が歌舞伎町のコンクリートを叩く微かな振動が、湿った地下の壁を伝って響いている。錆びた鉄パイプがのたうち回る天井からは、チカチカと不快な音を立てるネオン管の光が降り注ぎ、魁人の青白い顔を不気味に照らしていた。


 左腕は肘から先が痺れ、感覚が完全に消失している。時折、皮膚の表面を青白いデジタルグリッチが不規則に走り、右目の視界の半分は砂嵐のようなノイズで塞がれていた。コード汚染率十六パーセント。世界の物理法則を直接操作する『デバッガー』の異能は、生身の肉体を確実に蝕んでいる。


「アリス、バイザーのキャリブレーションテストを開始する。データを送ってくれ」


 魁人は耳の奥の骨に貼り付けた超薄型のアナログ骨伝導レシーバー『ゴースト・トーク』を軽くタップした。ギガ・コードの最新鋭のデジタル傍受網に絶対に引っかからない、昭和期の超短波アナログ周波数。耳の奥に、直接アリスのハスキーな声が響く。


『了解。私の「ホワイト・ラビット」経由で、スキャンレンズの最適化プロファイルを送るよ。……それにしても魁人、本当にやる気? 明日の聖マリアンヌ病院は、神崎派の武装能力者と馬場の息がかかった汚職警官で固められた完全な要塞だよ』


「詩織の発作は人為的なものだ。四十八時間以内に救い出さなければ、脳が完全にフリーズする。……やるしかないんだ」


 魁人は分解した眼鏡のフレームに、アリスが闇ルートで手配した超小型の「電磁波スキャンレンズ」をピンセットで慎重に埋め込んでいった。指先が微かに震える。身体的な戦闘力が一般人並み、いやそれ以下である自分が、明日の強行突入を生き延びるためには、この「眼」と「指先」を極限までチューニングするしかなかった。


 半田ごての熱い匂いと、オゾンのような電子臭が鼻を突く。配線を自作のスマートフォンに直結し、眼鏡の右側フレームにある隠しスイッチをタップした。


 キィィィィン――。


 網膜の奥を直接引っ掻くような高周波の電子音が鳴り響き、レンズの内側に極薄の緑色のホログラムディスプレイが起動した。『バグアイ・バイザー(眼鏡偽装)』。


 視界が瞬時に緑色のグリッドに覆われ、診療所内を走る微弱な電磁波や、壁の向こうの配線、そして世界の「コードの継ぎ目」が、幾何学的なデータストリームとなってスクロール表示され始めた。


「バイザーの同期完了。物理法則の歪み(バグ)が、前よりも鮮明に視える」


『さすがだね。でも、デバイスを弄るだけで脳波がまた異常発熱してる。無理は禁物だよ』


 アリスの警告を無視し、魁人は脳内ターミナルに直接インストールされている『デバッグ・マニフェスト』を起動した。世界システム「プロビデンス」のバグから偶然ダウンロードされた、管理者用のエラー対処手順書。視界の端に、冷たい青色のホログラムテキストが浮かび上がる。


`[System Message: Debug Manifesto v1.02]`

`[Warning: Memory capacity is strictly capped at 4.0GB. Executing high-load commands may cause Neural Overflow (Brain Death).]`


 文字は感情を持たず、魁人の脳にかかるシステム負荷(RAM)の警告を淡々と表示している。魁人はそのコマンド構文(文法)を、頭が割れそうな痛みに耐えながら脳神経に叩き込んでいった。


(Deleteは対象の物理パラメータを消去する基本構文。Compileは周囲のデータ残滓を一時的に実体化させる構築構文……だが、コンパイルは消費メモリが多すぎる。今の俺の4GBのメモリ制限では、大規模な物質構築は一瞬でオーバーフローを起こし、脳死に至る)


 実証テストを行うため、魁人は脳内ターミナルから意識を『仮想空間「サンドボックス・エリア0」』へとダイレクト接続した。周囲の現実の景色が消え去り、完全な無音の暗闇が広がる。ここでは「死」が現実の脳死を意味する、精神的禁域。


 魁人は右手を前に突き出し、青い光の『ホログラフィック・キーボード(青光)』を空中に投影した。キーが明滅するたびに、自身の精神波がシステムコードと同期していく。


「テストコンパイル……`compile weapon.binary_bladè」


 空中に青い光の糸がのたうち回り、一本の鋭利なデータブレードが実体化しようとする。だが、その瞬間、視界が真っ赤なエラー警告で埋め尽くされた。


`[Warning: RAM usage exceeded 95% (3.8GB/4.0GB). Aborting compilation to prevent system crash.]`


「がはっ……! あ、あぁ……!」


 激しい電子頭痛が脳を直撃し、魁人は強制的にサンドボックスから現実のベッドへと引き戻された。鼻から生温かい血が滴り、畳の上に赤黒いシミを作る。左腕の感覚は完全に消失し、右目の砂嵐がさらに激しくなった。


『魁人! 接続を切って! これ以上は脳が持たない!』ゴースト・トークからアリスの悲鳴のような声が響く。


「はぁ……はぁ……、大丈夫だ。……やはり、今のメモリ容量では、ブレードの完全なコンパイルは無理か。一瞬でRAMがパンクする」


 魁人は袖で鼻血を拭い、冷徹に計算を繰り返した。


「なら、明日の病院突入では、弾丸そのものを消去(Delete)するのは諦める。弾丸が俺の肉体に接触するコンマ数ミリ秒の瞬間だけ、衝突判定(Collision)のコードを『Null』に上書きする……。それなら最小限のメモリ消費で弾を透過できるはずだ」


『弾道Null化……ノー・コリジョン? 狂ってるよ、タイミングが1ミリ秒でもずれれば、生身の肉体に銃弾が直撃して即死するんだよ!?』


「直接の戦闘力がゼロの俺が生き残るには、物理法則の裏をかく、この知略しかないんだ」


 魁人の言葉には、復讐者としての冷徹な執念と、妹を救うための狂気的な覚悟が宿っていた。黒岩刑事との「この歪んだ世界を人間らしく生き抜く」という約束を果たすためなら、脳神経が二進法データに変換される恐怖など、疾うに克服していた。


「何が『知略しかない』だ、小僧」


 暗闇の中から、ハスキーで冷ややかな声が響いた。


 タバコの煙を燻らせながら、闇医者サカグチが診療所の奥から歩み寄ってきた。金属製の重厚なサイバーアームを軋ませ、魁人の脳波モニターの警告赤ランプを見つめて冷笑を浮かべる。


「脳みそが沸騰してやがる。そんな状態で明日の防衛AI『ケルベロス』とやり合えば、一瞬で消し炭だぞ」


 サカグチはポケットから、超伝導冷却カプセルが埋め込まれた特殊なシートを取り出すと、魁人の首の後ろ――延髄付近に物理的に貼り付けた。


「っ――!? 冷たっ……!」


 脳が物理的に凍結されるような、凄まじい寒気が全身の脊髄を駆け抜けた。だが次の瞬間、脳内を支配していた激しい電子頭痛と、演算遅延(ラグ)が、嘘のように完全に消失していく。


『脳冷却装置「クーラー・ゼロ」』。超伝導冷却シートが脳内温度を物理的に引き下げ、魁人の右目のノイズが一瞬で消え去り、視界が完全にクリアになった。


 サカグチは魁人の肩をポンと叩き、暗い通路の向こうにある、詩織の隔離病室を見つめた。


「死ぬなよ、小僧。お前が死ねば、あの娘を救う奴は世界に誰もいなくなる」


 魁人は新しく調整した眼鏡の位置を直し、骨伝導レシーバーを強く握りしめた。


「あぁ。……行ってくる」


 病院突入まで、あと数時間。デバッガーの武装は、ここに完了した。

HẾT CHƯƠNG

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