隔離病棟の幽霊
「――あと四十八時間。それを過ぎれば、詩織ちゃんの脳は完全にフリーズする」
闇医者、サカグチの冷酷な宣告が、地下二階の湿った空気に重く沈殿していく。
海藤魁人は、サカグチ診療所の治療用ベッドの上で、鉛のように重い上半身をどうにか起こした。コンクリート剥き出しの壁には、ハッキング対策用の極太の物理隔離ケーブルがのたうち、天井の壊れかけたネオン管がチカチカと不快な音を立てて明滅している。鼻を突くのは、安タバコの煙と消毒液、そして電子回路が焼けたような焦げ臭い匂いだった。
「うっ……あ、あぁ……」
こめかみを凄まじい激痛が貫き、魁人は思わず顔をしかめて右目を押さえた。網膜の右半分は、未だに赤と緑のエラーログが砂嵐のように吹き荒れている。警察のスマートドローンを質量ハックで撃墜し、アパートの配電盤をショートさせて逃走した代償――脳の過熱によるコード汚染率は、すでに十五パーセントに達していた。左腕は肘から先が痺れ、指先を動かそうとするたびに、不規則なデジタルグリッチが皮膚の表面を青白く走る。
「無茶な書き換えのせいで、お前のニューロンの一部が二進法データに浸食されかけてるんだ。まともに動けないのも無理はねえよ」
サカグチは白衣の下の重厚なサイバーアームを軋ませながら、タバコの灰を床に落とした。その視線の先にあるホログラムモニターには、魁人の実妹である海藤詩織の脳波データとバイタルログが投影されていた。だが、その波形は、生きている人間のものとは思えないほど異常なスパイクを繰り返し、不気味な警告赤ランプが明滅している。
「詩織……」
魁人はかすれた声で妹の名を呼んだ。十四歳の詩織は、能力者マフィア「ギガ・コード」が街に流出させたバグドラッグの副作用による奇病――「データ拒絶症」を患っていた。脳が現実世界を正常なプログラムとして認識できなくなり、意識がフリーズしていく不治の病。
「どうして急に、こんな発作が……」
「自然発生した不具合じゃねえよ」サカグチは冷たく吐き捨てた。「詩織ちゃんが今入院している『聖マリアンヌ記念病院』の集中治療室。あそこは、表向きは一流の大病院だが、裏ではギガ・コード渋谷支部――神崎派の資本が入った監視要塞だ。奴ら、お前の妹の医療データをデータベース経由で直接ハックし、発作を誘発する毒性プログラムを流し込んでやがる。新型バグドラッグの強制投与実験の『実験体』にするつもりだ」
魁人の全身の血が、一瞬にして怒りで沸騰した。
神崎鉄兵。唯一の理解者であった黒岩刑事を暗殺し、魁人にその濡れ衣を着せて社会的抹殺に追い込んだ男。奴は、魁人が生きていることを確信し、その唯一の弱点である詩織を人質にして炙り出そうとしているのだ。
「奴ら……詩織を、ただの使い捨てのデータ(実験体)だとでも思っているのか……!」
怒りと憎悪が、魁人の凍りついた右目を青く発光させる。非力な高校生の身体が、怒りのあまり激しく震えた。黒岩刑事との約束――「この歪んだ世界を人間らしく生き抜く」という誓いが、魁人の胸の奥で激しく警鐘を鳴らしていた。妹をマフィアの実験体として殺させるわけにはいかない。絶対に、自分の手で救い出す。
「ドクター。明日、詩織をあの病院から連れ出す。この診療所に、彼女を幽霊患者として極秘移送するんだ」
サカグチはタバコを深く吸い込み、魁人を冷ややかな目で見つめた。
「言うのは簡単だがな、小僧。あそこは神崎派の武装警備員と、汚職警官の馬場が手配したスマートドローンが二十四時間体制で包囲している。セキュリティは国家の『プロビデンス』システムと同期した軍事レベルだ。正面から近づけば、救出する前にお前の脳が焼き切られて終わりだぞ」
「正面から行くつもりはない。……裏のネットワークから、システムそのものに致命的な『バグ』を仕込む」
魁人はベッドの脇に置かれたバックパックから、かつてジャンクパーツを組み合わせて自作したスマートフォンを取り出した。そして、耳の奥に貼り付けられた超薄型のアナログ骨伝導レシーバー「ゴースト・トーク」のスイッチを入れる。ギガ・コードのデジタル傍受網に絶対に引っかからない、昭和期の超短波アナログ周波数。
「アリス、聞こえるか」
数秒の砂嵐のようなノイズの後、耳の奥に、ハスキーで少し皮肉げな少女の声が直接響き渡った。ネット上でのみ繋がっている、魁人の唯一無二の相棒――有栖川零、コードネーム「アリス」だ。
『生きてたんだね、デバッガー。警察とマフィアの双方から追われて、てっきりドブネズミみたいにデリートされたかと思ってたよ』
「心配をかけた。だが、休んでいる暇はないんだ。詩織が……聖マリアンヌ記念病院で、ギガ・コードの実験体にされかけている」
耳元の音声が一瞬、息を呑むように沈黙した。アリスの皮肉げなトーンが消え、真剣な、そして微かに震える声に変わる。
『……話はサカグチの回線から傍受して知ってる。でも、あそこのメインフレームにハッキングを仕掛けるのは自殺行為だよ。本部の監査システムと同期した軍用AIが常時監視してる。もし侵入を検知されたら、あなたの今の弱りきった脳なんて、数ミリ秒で物理的に焼き切られる』
「わかっている。だが、四十八時間しかないんだ。アリス、君の力を貸してほしい。病院のファイアウォールを突破するための、暗号回線を同期してくれ」
長い沈黙の後、アリスは深くため息をついた。
『……本当に頑固だね。いいよ、死ぬときは一緒、なんて趣味じゃないけど、黒岩さんの遺志を継ぐって決めたのは私だしね。私の量子暗号化ソフト「ホワイト・ラビット」の通信帯域をそっちにパスする。でも、警告しておくよ。もし防衛システムをハックするなら、脳が完全に焼き切れる覚悟をしてね』
「あぁ。――システム、起動(リンク・スタート)」
魁人は静かに右手を前に突き出した。瞬間、彼の精神波と同期した青い光のホログラフィック・キーボードが、地下室の闇の中に鮮やかに実体化した。キーが明滅するたびに、魁人の視界には病院の全ネットワークトポロジーが、緑色のデータストリームとなってスクロール表示され始める。
ハックの開始。残存メモリ(RAM)はわずか1GB。極限の頭脳戦が幕を開けた。
『ホワイト・ラビット、同期完了。病院の第一防壁、スキャンを開始するよ』
アリスのナビゲーションに従い、魁人の指先がホログラムキーボードの上を無音で滑るように動き始めた。まずは病院の患者データベースへアクセスを試みる。スマートフォンの画面に、高速で文字列が流れていく。
だが、接続を確立したコンマ数秒後、魁人の視界の端に真っ赤な警告ログが走った。
`[Warning: Unregistered IP Detected]`
`[Defense AI "Cerberus" Active]`
「しまっ――! 防衛AIがスキャンを感知した!」
『ファイアウォールが急速に閉じていく! 逆探知プログラム(ICE)がそっちのIPを逆流してくるよ!』アリスの叫びが骨伝導レシーバーを震わせる。
魁人は瞬時にIPを偽装(スプーフィング)して回避しようとしたが、病院サーバーの『生体データ認証』システムに弾かれる。`[Access Denied: Biometric Match Failed]`。生体データが登録されていない外部からのアクセスは、システムレベルで即座に拒絶される設計になっていた。逆流する脳焼きシグナルが、魁人の脳神経を直接直撃する。
「がはっ……!」
魁人は激しい電子頭痛に襲われ、ベッドの上でのけ反った。右目のノイズが狂ったように明滅し、鼻から一筋の鮮血が滴る。脳内温度が急上昇し、意識が遠のきかける。
『魁人! 接続を切って! これ以上は脳が持たない!』
「まだだ……! 切るな、アリス!」
魁人は血を拭い、再びキーボードに両手を乗せた。正面からの突破は不可能。だが、どんなに強固なシステムにも、必ず人間が設計した「不具合(バグ)」が存在する。魁人は自身の眼鏡――「バグアイ・バイザー」のフレームをタップし、視覚スキャンを最大出力に引き上げた。右目の激痛に耐えながら、剥き出しになった病院のソースコードを凝視する。
(例外処理……必ず、システムがエラーを起こしたときのための『逃げ道』が記述されているはずだ)
視界が赤く染まる中、魁人のバグアイが、データベースの深部に隠された一行のコードを赤く強調して捉えた。
`if (system.status == EMERGENCY_MAINTENANCE) { allow.bypass_all_protocols = true; }`
「見つけた……例外処理ゲートだ。緊急システムメンテナンス時のみ、すべてのセキュリティプロトコルを無効化する正規の例外ルール……!」
『それだ!』アリスの声が弾ける。『私が今から「パケット」を放って、病院のメインサーバーに偽のシステムエラーを大量に送りつける! サーバーに負荷をかけて、一時的に「緊急メンテナンスモード」へ強制移行させるよ!』
「頼む!」
アリスが開発した自律型囮AI「パケット」が起動し、聖マリアンヌ病院の防衛システムに向けて数百万のダミーリクエストを一斉にブロードキャストした。防衛AI「ケルベロス」の処理能力が囮の排除に分散され、ファイアウォールの閉鎖が一時的にフリーズする。
「今だ!」
魁人の指先が、限界を超えた速度でキーボードを叩き始めた。秒間五十打鍵。打鍵音のない青い光のキーが、魁人の執念と同期して激しく明滅する。彼は例外処理ゲートの隙間に、自身の作成した「セキュリティ・バイパス」のコマンドコードを高速で流し込んでいく。
`override hospital_security.locks = false;`
`override hospital_camera.loop = true;`
脳細胞が微細なデータへと書き換わっていくような、恐ろしい感覚が魁人の全身を支配した。RAM使用率は限界の3.9GBに達し、左腕の感覚は完全に消失していた。だが、魁人はタイピングを止めなかった。妹の命を救うため、その一心だけで指を動かし続ける。
そして、エンターキーを強く押し込んだ瞬間。
`[System Message: Infiltration Path Secured]`
`[Backdoor Installed Successfully]`
「はぁ……はぁ……、やった……!」
青いホログラフィック・キーボードが静かに霧散し、地下室に静寂が戻った。魁人は激しい眩暈に襲われ、ベッドに倒れ込んだ。だが、彼のスマートフォンには、聖マリアンヌ記念病院のすべての防犯カメラと電子錠を、明日の物理的突入時に遠隔操作するための「バックドア」が完全に仕込まれていた。
『ハック成功……侵入経路は確保したよ、魁人』
骨伝導レシーバーから聞こえるアリスの声は、成功の喜びよりも、深い懸念と恐怖に満ちていた。
『でも、これで終わりじゃない。明日は、物理的にあの要塞へ突入しなきゃいけない。神崎派の武装した能力者マフィアと、馬場の息のかかった汚職警官たちが、銃を構えてあなたを待ってる。……本当に、あそこへ行く気?』
魁人は、グリッチノイズが明滅する自身の左手を見つめ、それから静かに眼鏡をかけ直した。右目のノイズの奥で、冷徹なデバッガーの瞳が青く燃え上がっていた。
「あぁ。――詩織を救うためなら、俺は世界の物理法則だって書き換えてみせる」
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