冤罪のハッシュコード
「ターゲット、完全沈黙。もう一人のエラー因子を検知。直ちに物理デリートを実行する」
無機質な合成音声が、雨のハチ公前広場に冷たく響いた。黒岩壮介の血の海を囲むように現れた、ギガ・コードの光学迷彩部隊。彼らの銃口が、一斉に海藤魁人の額へと向けられる。赤いレーザーサイトの光点が、冷たい雨粒を貫いて魁人の肌を焼く。右目は過熱により半ば盲目となり、脳髄は四千メガヘルツの過負荷で悲鳴を上げていた。残存メモリ(RAM)はゼロ。今、世界のソースコードを書き換える『Delete』コマンドを使えば、確実に脳神経が焼き切れて死ぬ。
(ここで死んでたまるか……黒岩さんとの約束を果たすまでは!)
魁人は泥にまみれた手で、黒岩から託された血濡れのUSBメモリ――『マスターアクセスキー』をパーカーのポケットの奥深くへと押し込んだ。そして、手元に転がっていた、先ほど熱暴走で自爆したスマートフォンの残骸に目を落とす。まだ微かに明滅しているリチウムイオンバッテリー。魁人は懐から取り出したアナログな金属製のペンクリップを、剥き出しになったバッテリーの電極へ力任せに突き刺した。
物理的な強制ショート。瞬間、高熱を帯びたバッテリーが激しい火花を散らし、指向性の強い電磁ノイズ(EMP)が炸裂した。
「チッ、センサーにグリッチが発生! 視界がジャムった!」
光学迷彩部隊のバイザーが青いノイズで乱れ、彼らの照準が一瞬だけ逸れる。そのコンマ数秒の死角を、魁人の鋭いハッカーとしての直感は見逃さなかった。彼は生身の貧弱な身体を泥まみれにしながら、ハチ公前の植え込みの影へと転がり込み、そのまま渋谷駅の地下入り口へと滑り込んだ。背後でサプレッサー付きの冷酷な銃声が何度も響き、アスファルトを削る音が雨音に混ざって聞こえたが、魁人は振り返ることなく、暗い地下通路を全力で走り抜けた。
山手線に飛び乗り、息を潜めて辿り着いたのは、新宿区百人町の線路沿いにひっそりと佇む古い木造アパート『海藤家』だった。かつて両親と暮らし、今は詩織と二人だけの、家賃の安い我が家。201号室のドアを開け、鍵を閉めた瞬間、魁人は玄関の床に崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……、くそっ……!」
鼻から生温かい血が滴り、畳の上に赤黒いシミを作る。網膜の端では、未だに赤い警告ログが狂ったように明滅していた。`[RAM Overheat]`、`[Neuro-contamination: 12%]`。右目の視界の半分はデジタルノイズで砂嵐のようになっており、左腕には微かなピリピリとした電子痛が残っている。世界の物理コードを直接操作する『デバッガー』の異能は、生身の肉体を確実に蝕んでいた。
魁人はふらつく足取りで部屋の奥へと向かった。棚の奥から、5年前に『コード暴走事故』で亡くなった父・哲也が遺した古い研究ノートと、妹の詩織が病床で使っていた古い携帯型ゲーム機を回収し、バックパックへと詰め込む。これらはマフィアに対抗するための、そして詩織を救うための数少ない手がかりだった。
その時、窓の外から、虫の羽音のような不快な高周波音が聞こえてきた。魁人が息を殺して窓の隙間から外を覗くと、雨の夜空に、赤いセンサーライトを明滅させる警察のスマートドローンが滞空していた。ドローンの底面から放たれる青いスキャンレーザーが、古いアパートの外壁をなぞり、201号室の窓へと迫ってくる。
『――警告。生体ID:海藤魁人を検知。警視庁組織犯罪対策課、およびプロビデンス自動追跡網に基づき、対象を包囲中』
アパートの下に、数台の黒い警察車両が滑り込んでくるのが見えた。車から降りてきたのは、高級な腕時計をギラつかせ、嫌味な笑みを浮かべた肥満気味の中年男――警視庁組織犯罪対策課の警部補、馬場宗二だった。マフィアと癒着し、黒岩刑事を邪魔者扱いしていた汚職警官。彼がメガホンを手に、冷酷な声を張り上げる。
「海藤魁人! 黒岩壮介警部補を殺害した容疑で、お前に逮捕状が出ている! 無駄な抵抗はやめて投降しろ!」
「……あいつが、黒幕の手先か」
魁人の奥歯がギリ、と鳴った。黒岩さんを殺したマフィアと繋がり、その罪を自分に擦り付ける。警察の国家監視システム『プロビデンス』の捜査網は、すでに魁人のスマートフォン回線を完全に逆探知し、アパートの周囲に強固な通信ファイアウォールを敷いていた。通常のサイバーハッキングでドローンの制御を奪うことは不可能。国家級のセキュリティに触れた瞬間、再び脳を焼き切られる。
(ネットが使えないなら……物理的な『変数』を直接書き換えるしかない)
魁人はバックパックから、かつてジャンクパーツで自作した予備のスマートフォンを取り出した。そして、両手をパーカーのポケットに突っ込み、中に仕込まれた『超伝導ノイズレス・キーボード』に指を走らせた。打鍵音は完全なゼロ。ポケットの中で、魁人の指先が目に見えない速度でブラインドタイピングを開始する。脳内のバグアイが起動し、手元のスマホの物理ステータスコードをロックオンした。
`[Target: spare_phone]`
`[Mass (質量): 0.15kg]`
魁人は、その質量パラメータを定義している数値に直接干渉した。指先がキーを叩くたび、脳髄に再び激しい熱が走る。RAM使用率が3.8GBへと急上昇し、右目のノイズが激しさを増す。
`set spare_phone.mass = 15.0`
エンターキーを強く押し込んだ瞬間、魁人の手元にあるスマートフォンの「質量」が、一瞬にして100倍――約15キログラムの超高密度な鉄塊と同等の重さへと書き換わった。生身の魁人の腕が、その異常な重量に耐えかねて沈み込む。
「……いけっ!」
魁人は窓を開け放ち、15キロの質量と化したスマートフォンを、外でホバリングしているスマートドローンに向けて全力で投げつけた。ドローンの自動回避AIは、接近する物体がわずか150グラムの軽量なスマホであると予測し、微小な回避挙動しかとらなかった。だが、実際に衝突したのは、15キロの物理的質量を持つ「弾丸」だった。
ベキィッ! という凄まじい金属破壊音とともに、スマートドローンのメインローターと光学センサーが物理的に粉砕され、火花を散らしながらアスファルトへと落下していった。一瞬のスキャン死角が生まれる。
「な、なんだ!? ドローンが撃墜されただと!?」馬場の狼狽した声が下から聞こえる。
「まだだ、次の一手だ!」
魁人は休むことなく、ポケットの中でタイピングを続けた。ターゲットは、アパートの廊下に設置された古いスマート配電盤。その電圧パラメータを直接操作し、限界突破の過電流を発生させる。
`set power_grid.voltage = 10000`
バチバチバチッ! と激しい放電音が響き、アパート全体のスマートブレーカーが物理的にショート。周囲一帯の街灯や監視カメラ、そして警察車両の電子機器が一斉にブラックアウトし、濃密な闇が百人町の路地裏を支配した。
「停電だ! 予備電源を起動しろ! 奴を逃がすな!」
馬場の怒号が闇の中に消えていく。その隙に、魁人はアパートの裏窓から線路沿いの防音壁をよじ登り、冷たい雨水が激しく流れる下水道のマンホールへと滑り込んだ。暗闇と汚水にまみれながら、彼はひたすら走り続けた。脳の過熱は限界を超え、視界はほとんど白黒のノイズに染まり、全身の筋肉が痙攣を始めていた。新宿歌舞伎町の地下深くへと辿り着いたところで、魁人の意識は完全に途絶え、冷たいコンクリートの床へと倒れ込んだ。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
「……おい、起きろ。これ以上寝てると、お前の脳味噌が完全に二進法のゴミデータに変わるぞ」
低く掠れた、不機嫌そうな男の声が響いた。魁人がゆっくりと目を開けると、そこはコンクリート剥き出しの薄暗い地下室だった。天井からは不気味な青いネオンが滴るように照らし、周囲には最新の医療機器と、ハッキング対策用の太い物理隔離ケーブルがのたうっている。鼻を突くのは、消毒液の匂いと、安物のタバコの紫煙。
ベッドの脇には、白衣の下に重厚なサイバーアームを仕込んだ50代の男が、タバコを咥えながらホログラムのバイタルモニターを眺めていた。歌舞伎町の闇医者であり、魁人の肉体管理者でもある坂口護――ドクター・サカグチだった。
「ドクター……俺は……」
「歌舞伎町のドブ板の下で倒れているお前を、運び屋の翔太が拾ってきたんだ。脳の温度が41.5度まで上がってたぞ。ニューロクーラーを貼って冷却ナノマシンをぶち込んでやらなきゃ、今頃お前はただの植物人間だ」
サカグチは冷酷そうに言いながら、タバコの煙を吐き出した。魁人は自分の左腕を動かそうとしたが、鉛のように重く、皮膚の表面には微かなグリッチノイズが走っては消えていた。コード汚染は確実に彼の肉体を侵食している。
「ありがとう、ドクター。……詩織は? 詩織は無事なのか?」
魁人は這い上がるようにしてサカグチの袖を掴んだ。妹の詩織は、バグドラッグの副作用による奇病『データ拒絶症』で、この診療所の最深部にある隔離病室に入院しているはずだった。
サカグチはタバコを灰皿に押し付け、ホログラムのモニターを魁人の目の前にスライドさせた。そこに表示されていたのは、詩織の脳波データとバイタルログだった。しかし、そのグラフは不自然なほど激しいスパイクを描き、赤色のエラーメッセージが点滅している。
「無事とは言えねえな」サカグチの目が、かつてないほど真剣で冷たいものに変わった。「詩織ちゃんの『データ拒絶症』の発作が急激に悪化している。脳の現実認識パラメータが強制的に書き換えられているんだ。……自然発生したバグじゃない。何者かが病院のメインデータベース経由で、彼女の医療データを直接ハックし、発作を誘発する毒性プログラムを流し込んでやがる」
「なんだって……!?」
魁人の全身の血が凍りついた。ギガ・コードか、あるいは馬場か。奴らはすでに、魁人の唯一の弱点である詩織の存在に気づき、その命を人質にして魁人を炙り出そうとしている。
「このままだと、あと48時間で彼女の脳は完全にフリーズする。救いたければ、ギガ・コードのサーバーから、オリジナルの『クリーン・コード(解毒データ)』を直接奪い取ってくるしかないぞ、魁人」
サカグチの残酷な宣告が、暗い診療所に重く響き渡った。魁人は震える拳を握りしめ、青く発光し始めた右目で、迫り来る最悪のタイムリミットを見つめていた。
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