バグ・イン・ザ・ネオン
雨上がりの渋谷スクランブル交差点は、色とりどりのネオンサインを濡れたアスファルトに反射させ、まるで巨大な液晶ディスプレイのように不気味に明滅していた。行き交う数万人のノイズ。傘の波。誰もがスマートフォンに目を落とし、この世界を覆う「システム」の檻の中で、飼い慣らされた家畜のように歩いている。
海藤魁人は黒いオーバーサイズのパーカーのフードを深く被り、安物の眼鏡の奥の瞳で、その光景を冷ややかに眺めていた。17歳の普通の高校生――それが彼の表向きの擬態だ。しかし、魁人の網膜には、一般の人間には見えない「世界の不具合」が映っていた。時折、ビルの輪郭や人々の影に沿って走る、緑色の二進法コードの残滓。10歳の頃に受けた脳腫瘍手術の「後遺症」とされるその特異体質は、彼にこの世界の裏側に潜むデジタルな「歪み」を視認させていた。
ハチ公前の植え込みの影。マイルドセブンの安っぽい煙草の臭いが、雨の匂いに混じって漂ってくる。
「遅かったな、魁人」
ヨレヨレのトレンチコートを着た男、黒岩壮介が、吸い殻を携帯灰皿に押し込みながら言った。無精髭を生やし、いつも疲れた目をしている警視庁のベテラン刑事。だが、魁人にとっては、自身のハッキングの才能を「正義」のために使う道を教えてくれた、唯一の理解者であり、心の父親とも呼べる存在だった。
「尾行を撒くのに時間がかかったんだ。警察の『プロビデンス』監視網は、日増しに厳しくなっている」
魁人が声を潜めて言うと、黒岩はフッと自嘲気味に笑った。「国家のネット監視システムが、マフィアの隠れ蓑に使われているんだから世も末だ。……いいか、魁人。お前が追っている巨大IT企業『ギガ・コード』の裏の顔は、この世界の物理法則そのものを書き換える異能マフィアだ。これ以上深入りすれば、お前の命はない。だが――」
黒岩がトレンチコートの内ポケットから、重厚な金属製の暗号化USBメモリを取り出そうとした、その瞬間だった。
世界が、物理的に「歪んだ」。
突如として、スクランブル交差点の中央、ハチ公前広場の空間が、液晶画面を指で強く押し潰したときのように、不気味な虹色の同心円を描いて歪み始めた。キィィィィン、という耳を劈くような高周波の電子ノイズが脳に直接響き渡る。周囲の一般市民たちが耳を押さえてうずくまり、悲鳴を上げた。
「なんだ……!? このノイズは!」黒岩が本能的に腰の拳銃に手をかける。
空間の「継ぎ目」がバリバリと音を立てて裂け、そこから這い出てきたのは、おぞましい怪物だった。ドブネズミの死骸が数十、いや数百も融解して結合したかのような、巨大でグロテスクな肉塊。その肉体の輪郭は、青白い二進法のノイズコード(グリッチ)を纏って激しく振動している。世界のシステムエラーが実体化したバグ生命体――「グリッチ・ラット」だ。
怪物が咆哮した瞬間、周囲半径十メートルの物理法則が強制的に書き換えられた。アスファルトの表面から「摩擦抵抗」が完全に消失する。
「うわっ!?」
逃げ惑う人々が一斉に足を滑らせ、氷の上を滑るように転倒し、慣性の法則のままに四方へと滑り出していく。グリッチ・ラットは、その摩擦ゼロの領域を滑空するように、驚異的な速度で魁人へと突進してきた。
「下がれ、魁人!」
黒岩が叫びながら拳銃を抜き、引き金を引く。パァン、パァンと乾いた銃声が響く。しかし、放たれた弾丸は、怪物の周囲に展開された『摩擦抵抗ゼロ』のバグ領域に接触した瞬間、その運動ベクトルを不自然に滑らせて虚空へと逸れていった。通常の物理攻撃が、システムレベルで無効化されている。
怪物の鋭い爪が、呆然と立ち尽くす魁人の喉元へ迫る。生身の高校生である魁人には、避けるだけの身体能力はない。
「しまっ――!」
黒岩が魁人の身体を泥臭く突き飛ばした。代わりに、怪物の爪が黒岩の胸元を深く引き裂く。赤い鮮血が、夜のネオンの中に飛び散り、黒岩の巨体がアスファルトに崩れ落ちた。
「黒岩さん!!」
魁人は濡れた地面を這い、眼鏡をかけ直した。その瞬間、彼の脳内で、埋め込まれた電極がプロビデンスのシステムノイズを受信し、激しい共振を起こした。
『――警告。管理者用デバッグターミナル、強制接続(ダイレクトリンク)』
脳裏に冷酷なシステム音声が響き、魁人の視界が一変した。世界が、青い二進法のソースコードで構成されたマトリクスへと変貌する。魁人の「バグアイ・スキャン」が覚醒したのだ。右目の網膜に、グリッチ・ラットのステータスコードが赤く強調されてスクロール表示される。
`[Target: Glitch_Rat]`
`[Mass (質量): 150kg]`
`[Friction (摩擦): 0.0]`
(こいつは生物じゃない……システムのエラーデータが実体化した『バグ』だ。なら、修正できる!)
魁人はスマートフォンを取り出し、通常のハッキングで制御を奪おうとした。しかし、怪物の放つ凄まじい電磁ノイズにより、スマホのバッテリーが熱暴走を起こし、手元で火花を散らして爆発した。指先に痛烈な痛みが走る。アナログな外部端末では、この世界のソースコードには干渉できない。
「くそっ……俺の脳で直接書き換えるしかない!」
死の恐怖を、冷徹なプログラマーの論理思考で押さえつけ、魁人は両手を空中に突き出した。その指先と同期するように、青い光を放つホログラフィック・キーボードが空中に投影される。魁人の指が、目に見えない超伝導のキーを叩き始めた。秒間40打鍵。常軌を逸したタイピング速度。
「脳が……熱い……!」
メモリ消費が急上昇する。1GB……2GB……3GB……4GB。それが、覚醒したばかりの魁人の最大限界(RAM)だった。右目の視界に、血のように赤い警告ログがスクロールする。`[RAM Overheat]`、`[Neuro-contamination: 12%]`。鼻から生温かい血が滴り落ちる。脳が焼き切れそうな激痛に耐えながら、魁人はコマンドを入力し切った。
`delete Glitch_Rat.mass̀
そして、エンターキーを強く叩いた。
静寂。
コマンドが上書き実行された瞬間、グリッチ・ラットの巨大な肉塊から「質量」という物理概念が完全に消去(Null化)された。怪物は重力に従うこともできず、ただの光のドットへと分解され、青白いデジタル塵となって夜空へと霧散していった。アスファルトの摩擦抵抗も正常値へとロールバックされる。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
ホログラムのキーボードが消え、魁人は両膝をついて激しく喘いだ。右目は過熱により半ば盲目となり、激しい電子頭痛が脳を支配していた。だが、休んでいる暇はなかった。
「黒岩さん……!」
魁人は血の海に倒れる黒岩のもとへ這い寄った。黒岩は薄れゆく意識の中で、トレンチコートの内ポケットから、重厚な暗号化USBメモリ――「マスターアクセスキー」を取り出し、震える手で魁人の血に染まった手に握らせた。
「魁人……これを持っていけ……。この歪んだ世界を……お前のコードで……人間らしく生き抜くんだ……」
「黒岩さん! しっかりしてください、黒岩さん!」
しかし、黒岩の瞳から光が消え、握り返す力が失われた。魁人の叫びは、雨音にかき消される。
その時、周囲の空気が凍りつくような、完全な無音の殺意が降りてきた。魁人のバイザーが、闇の中から接近する複数の「生体シグナル」を検知する。赤いレーザーサイトのドット光が、血に濡れた黒岩の胸元と、魁人の額にピタリと吸い着いた。
――プツン、プツン。
サプレッサーを装着された冷酷な銃声が、雨のハチ公前に響いた。黒岩の身体が物理的に跳ね、新たな血が魁人の頬に飛び散る。闇の中から現れたのは、ギガ・コードの紋章を纏った、顔のない光学迷彩の武装集団だった。
「ターゲット、完全沈黙。もう一人のエラー因子(魁人)を検知。直ちに物理デリート(抹殺)を実行する」
冷酷なシステム音声のような声が響き、魁人は血の海の中で、唯一の理解者を失い、逃げ場のない孤独な包囲網の中に立たされた。
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