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追跡の猟犬

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「キーン」という、鼓膜の奥を引き裂くような高周波の耳鳴りが、矢野陣の意識を執拗に苛んでいた。左耳の聴覚は、ハインツの電磁警棒「スタン・ベクター」が放った強烈な衝撃波によって麻痺しており、周囲の音をくぐもった、泥の底から響くような不快なノイズへと変え果てていた。


 一歩、ボブが酸性泥水を踏みしめるたびに、陣の左肩に走る鎖骨のひびが、白熱した鉄条網を肉の深部にねじ込まれるような激痛を放つ。痛覚の反転による麻痺はすでに切れかけており、生身の肉体が被った損傷の現実が、容赦なく彼の神経を焼き焦がしていた。


「持ちこたえろ、陣! すぐに安全なセクターへ抜ける。ボブ、足元を急げ!」


 自警団長である鉄二が、脱臼しかけた右肩を強引に包帯で固定したまま、超重量のカスタマイズ重機関銃「ベヒーモス」を抱えて陣の隣を走る。彼のタンクトップは酸性雨と脂汗で濡れそぼり、強靭な肉体からは湯気が立ち上っていた。


「わかってる、鉄二! だがこの先は『迷宮配管』の泥濘だ。足を取られるなよ!」


 陣を背負った大柄な配管工、ボブが、ヘルメットのヘッドライトで暗黒の地下水道を照らしながら叫んだ。膝まで浸かる緑がかった酸性水は、彼らのブーツの表面をじりじりと腐食させ、鼻を突く硫黄のような有毒ガスを大気中に撒き散らしている。スラムの最下層に広がるこの暗黒の排水網こそが、帝国のセンサー網から一時的に身を隠す唯一の回廊だった。


 陣は、ボブの背中でかすれる息を吐きながら、自身の左手首に巻かれた携帯型脳圧測定器「脈動計」に目を落とした。液晶画面は、不気味な鮮紅色を明滅させながら、冷酷な数値をデジタル表示している。


『一五二mmHg』


 安全限界の一四〇mmHgを遥かに突破し、脳血管が物理的に崩壊を始める一六〇mmHgの破裂限界まで、残された猶予はわずか「八」だった。首元の錆びた真鍮製「抑制リング」は、ハインツの無効化電磁波に干渉された熱傷の余熱で今なお熱く、陣の頸動脈を締め付けるようにジリジリと微弱な警告振動を繰り返している。これ以上の能力使用は、リングの緊急セーフティによる強制遮断――すなわち「完全な仮死状態」を招くことを意味していた。


(ハインツを倒した……。だけど、僕の能力波形データは本陣へ送信されてしまった。帝国はもう、僕をただのジャンク拾いとは見てくれない……)


 陣の右目の「ナノスタビライザー・アイ」は、暗闇の中で青い格子模様を虚空に投影していた。彼の視界には、自分たちが通り過ぎてきた空間のあちこちに、不気味に揺らめく「青白い光の塵」が残されているのが見えた。それらは、陣が「痛覚のベクトル反転」や「電磁流動ベクトルの還流制御」を起動した際、空間の並進対称性を強引に書き換えたことで生じた物理的な残像――すなわち、運動エネルギーの「軌跡」だった。


 そして、その「軌跡」こそが、最悪の追跡者を呼び寄せる標識となっていた。


 彼らが通過した三分前の分岐路。暗黒の配管の壁に、白い防護服に身を包んだ華奢な影が立っていた。帝国特殊追跡部隊「ベクター・ハンター」第3分隊の追跡官、エヴァである。彼女は知的な美貌を冷徹な仮面の裏に隠し、陣が触れた錆びた鉄パイプの表面に、黒い薄手の手術用手袋をはめた指先をそっと滑らせた。


「能力『サイコメトリー・ベクトル』、起動」


 彼女の細い呟きと共に、彼女が装着した特殊なルーペが青く輝いた。エヴァの視界の中で、鉄パイプから虚空に向けて、陣が移動した瞬間の「慣性ベクトルの残像」が、鮮やかな青い矢印となって空間に浮かび上がる。それは、まるで暗闇に引かれた一本の光る糸のように、地下水道の奥へと正確に伸びていた。


「ターゲットの運動履歴(ベクトル履歴)を検知。質量移動の波形から、被験体『ゼロ・ゼロ』の生存を確認。……フェンリル、追跡を開始しなさい」


 エヴァの冷徹な命令が下る。彼女の背後から、顎部をチタン合金でサイボーグ化した凶暴な軍用犬「フェンリル」の残存部隊が、赤い光学眼を怪しく明滅させながら、音もなく泥水を蹴って走り出した。その速度は時速六十キロメートル。彼らはエヴァが視覚化した「過去のベクトル履歴」を直接網膜でスキャンし、一切の迷いなく陣たちの背後へと迫りつつあった。


 バシャ、バシャ、バシャッ――!!


 暗黒の地下水道の奥から、無数の硬質な金属爪が泥水を切り裂く、不気味な駆動音が反響してきた。その音は、くぐもった陣の左耳の奥にすら、死神の足音のように明瞭に届いた。


「チッ、もう来やがったか! しつこい野良犬どもめ!」


 鉄二が激怒し、走りながら腰のホルダーから手製の発煙筒を引き抜いた。摩擦熱で点火された発煙筒から、どす黒い金属粉混じりの煙が噴き出し、狭い配管を瞬時に埋め尽くしていく。赤外線熱線センサーや音響ソナーを狂わせるための、自警団特製の煙幕だった。


 しかし、煙の向こうから迫る赤い光学眼の群れは、一瞬の速度低下すら見せなかった。


「無駄だ、鉄二!」陣が掠れた声で叫ぶ。「彼らは熱や音を追っているんじゃない……! 僕が動いたときに空間に残した『慣性の残像』を直接スキャンしているんだ。物理的な煙じゃ、僕たちの過去の『矢印』を隠すことはできない……っ!」


「何だと!? 過去の動きを追うってのか!? そんなの、どうやって撒けばいいんだ!」


 鉄二の焦燥が極限に達したその瞬間、先頭を走っていたボブが、泥水に沈んでいたコンクリートの瓦礫に足を取られた。


「うわっ……あぁっ!」


 ボブの巨体が激しく前方へ転倒し、その衝撃で陣の身体が泥水の中へと投げ出された。左肩の鎖骨に走る激痛が破裂し、陣は泥水を吐き出しながら絶叫した。


「う、ぐあぁぁぁぁっっ!!」


『警告:脳圧一五五mmHg。血管破裂限界まで残り五』


 脈動計の警告音が、地下水道の壁に反響して狂ったように鳴り響く。右目のスタビライザー・アイの視野の端が、毛細血管のきしみによってじわりと赤く染まり始めた。視界の半分が、血の赤霧に侵食されていく。


「陣! ボブ! 立て、早く!」


 鉄二が陣の腕を掴んで強引に引き起こすが、彼らが倒れ込んだ場所は、錆びついた巨大なバルブと太い鉄格子によって完全に塞がれた、行き止まりの配管室だった。かつての排水管理室。コンクリートの壁は分厚く、逃げ道となるハッチは錆で固着してビクともしない。


 背後の通路から、立ち込める煙幕を切り裂いて、赤い光学眼の群れが姿を現した。サイボーグ犬フェンリルが、チタンの牙から微弱な電磁スパークを散らしながら、彼らを半円状に包囲する。


 そして、その中央から、白い防護服を着たエヴァが、数名の帝国特殊追跡兵を従えて静かに歩み出てきた。兵士たちの手には、高周波で駆動する電磁加速銃が握られ、そのすべての銃口が陣の頭部へと正確に向けられた。


「矢野陣。あなたの移動履歴(ベクトル)は、この空間の因果律に完全に記録されています。どれほど音を消し、姿を隠そうとも、一度生じた運動の不変性は拒絶できない」


 エヴァは冷酷な、一切の感情を排した声で宣告した。彼女の細い指先が、空中に向けられる。


「お前たちスラムのバグに、これ以上の演算の余地は残されていない。……射撃開始(ファイア)」


 数十丁の電磁加速銃のトリガーに、兵士たちの指がかけられた。ゼロコンマ数秒後には、マッハを超える電磁弾の嵐が陣たちの肉体を消し炭に変えるだろう。鉄二は、脱臼した肩を震わせながら「ベヒーモス」の銃口を敵に向け、生身の盾となるように陣の前に立ちはだかった。


(終わりだ……。ここで『ベクトル反転』を使えば、弾丸の巨大な運動エネルギーによって、僕の脳圧は一瞬で一八〇mmHgの即死線を突破する。脳出血で、僕はその場で死ぬ。だけど、使わなければ、鉄二もボブも、全員がここで撃ち殺される……)


 血の赤霧に染まる右目の視界の中で、陣の脳裏に、かつて旧研究所のデータベースで目撃した「存在確率希釈の初期理論」の数式が、静かに、そして激しく明滅し始めた。


(……待てよ。エヴァの能力が『過去の運動ベクトル』を追うものなら、僕が今、この瞬間に発している『生体活動の運動』そのものを、完全に『ゼロ』に書き換えたらどうなる?)


 心臓の鼓動(振動ベクトル)。

 体内の血流(流動ベクトル)。

 細胞の熱運動(体温ベクトル)。


 それら、生命が生きていることの物理的な運動そのものを、空間の定数から一時的に「相殺(ゼロ)」にする。自身が「完全な死体(運動エネルギーを持たない無機物)」へと変貌すれば、エヴァの追跡センサーの論理的検知閾値を下回り、ロックオンを強制解除できるはずだ。


 だが、それは自身の心臓を一時的に「完全停止」させる、死と隣り合わせの禁忌の賭けだった。


(やるしかない……。僕の命の『矢印』を、今ここで静止させる――!)


 陣は、激しく点滅する脈動計の数値を睨みつけ、脳内の論理回路を極限まで駆動させた。右目の青い格子が、自身の胸部の心臓を流れる「生体電流」と「血流」のベクトルを捉える。


「血流のベクトル操作(緊急サージ)――制限解除(リリース)!」


 陣の唇から、凍りつくような冷たい呟きが漏れた瞬間、彼の全身の皮膚が一瞬にして土気色(青白く)へと変色した。こめかみで激しく脈打っていた血管の鼓動が、ピタッと、不自然なほどの静寂を伴って停止する。脈動計の心拍数表示が、冷酷に「0」を示し、液晶画面がフラットな一本の横線を描き出した。


 兵士たちの指が、引き金を引き絞る――まさにその瞬間、配管室全体の空気の対称性が、不気味に歪み始めた。陣の肉体を中心にして、光の屈折がテレビの砂嵐のように細かくブレ、空間全体の物理バランスが、氷点下の静寂へと沈み込んでいく――。

HẾT CHƯƠNG

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