逆流する牙
キーン――と、鼓膜の奥で引き裂くような高周波の金属音が鳴り響いていた。左耳はほとんど音を拾わない。地上の鉄二たちの陽動射撃も、激しい酸性雨の音も、まるで分厚い水壁の向こう側にあるかのようにくぐもって聞こえる。だが、右目の「ナノスタビライザー・アイ」が視覚化した青い格子模様だけは、暗闇の中で冷酷なほどに鮮明だった。
上空から迫る、血のように赤い光学の瞳。サイボーグ軍用犬「フェンリル」が、そのチタン合金の牙を剥き出しにして、陣の喉元へと跳ね上がっていた。時速六十キロメートル。その顎が持つ噛みつきの破壊力は、生身の人間を一瞬で噛みちぎる質量と速度のエネルギーそのものだった。
(逃げ場はない。避ければ、背後の源さんが巻き添えになる……!)
陣は、動かない左半身の痺れを堪え、一歩も退かずにその場に踏みとどまった。通常の反射境界線である「皮膚から一センチ」を展開する余裕すらない。極限の状況。陣は、自らの喉元の皮膚そのものを最後の防衛線と定め、衝突の瞬間を待ち受けた。
高周波で振動するチタンの牙が、陣の首の皮膚に接触する――まさにそのゼロコンマ一ミリ秒の瞬間、陣の脳内で物理演算が起動した。
「ベクトル・リバーサル(ベクトル反転)――!」
接触の瞬間、パチィンと激しい青いスパークが走った。陣の皮膚表面に接触したフェンリルの顎が持つすべての「噛みつきの圧力ベクトル」が、その運動量を完全に百八十度反転させられたのだ。凄まじい衝撃波が、牙の根元に向けて逆流する。
バキ、バキバキッ――!!
凄惨な破砕音が響いた。フェンリルは、自らが放った数万ニュートンの噛みつきのエネルギーをそのまま自身の顎と頭蓋骨に還流され、顎を内側から爆発的に粉砕された。サイボーグ犬は悲鳴を上げる間もなく、オイルと火花を撒き散らしながら床へと崩れ落ち、沈黙した。
ドクン、と陣の心臓が激しく波打つ。左手首の「脈動計」が、一三五から一四二mmHgへと一気に跳ね上がった。首元の錆びた真鍮製「抑制リング」が、耐えきれない過負荷によって異常発熱し、ジュッと音を立てて陣の首元の皮膚を焼き始める。焼けるような激痛が走るが、陣は歯を食いしばってそれを無視した。
「ほう、フェンリルの突撃をゼロ距離で自壊させたか。やはり、お前はただの失敗作ではないな」
ハインツは冷酷な笑みを浮かべたまま、右腕のデバイスを操作した。その瞬間、不気味な灰色の電磁波が地下作業場全体に放射された。「能力無効化電磁波」だ。陣は、自身の周囲の空間を構成する対称性のグリッドが、物理的に引き裂かれていく感覚を覚えた。
「ぐっ……空間の、演算が……!」
「この電磁波の範囲内では、お前の『空間を介した反射』は完全に遮断される。お前の絶対防御の境界線は、今や皮膚表面のゼロ距離にまで縮小された」
ハインツは、手にした電磁警棒「スタン・ベクター」を構え、一歩ずつ陣へと迫った。スタン・ベクターの先端から、数万ボルトの高圧放電が青白く明滅している。空間を介した防御を失った陣は、完全に無防備な生身の少年へと引きずり下ろされていた。
「これで終わりだ、バグめ」
ハインツがスタン・ベクターを大きく振り下ろした。音速に近い速度で、放電する金属棒が陣の左肩へと叩きつけられる。
通常の反射は起動しない。陣は、麻痺した左半身を動かすこともできず、その打撃を真正面から生身で受けるしかなかった。
ゴン――!!!
鈍い衝撃音が響き、陣の左肩の骨がきしむ凄まじい衝撃波が全身を走った。鎖骨にひびが入り、激しい電流が体内の神経を一瞬で焼き焦がそうとする。陣の体は衝撃でコンクリートの床へ叩きつけられそうになった。
『警告:脳圧急上昇。一四二……一四九mmHg。血管破裂限界まで残り十一』
脈動計が、鮮烈な赤色に点滅しながら、死のカウントダウンを告げる。一五〇mmHgに達すれば、抑制リングの緊急セーフティが起動し、陣は強制的に仮死状態に陥る。そうなれば、源さんも、自分も、全員が殺される。
(痛い……っ。でも、この痛み(電気信号)もまた、一方向へ流れる『ベクトル』だ……!)
陣は、床に膝をつきながら、右目の格子に自身の神経系を流れる「活動電位の伝導ベクトル」を重ね合わせた。脳の痛覚中枢に激痛が届く、その直前のミリ秒の猶予。陣は「痛覚神経信号の反転パス」を起動した。
「痛覚の……ベクトル反転……!」
陣が、自身の左肩を掴んでいたハインツのブーツの先に向けて、右手を伸ばして直接触れた。その瞬間、陣の脳に届くはずだった「左肩が粉砕された激痛」の電気信号が、その伝導方向を百八十度反転させ、接触面を通じてハインツの神経系へと直接逆流した。
「が、あぁぁぁぁぁぁぁっっ!!?」
ハインツが、突如として自身の左肩を抱え、絶叫しながら後退した。彼の左肩の骨は無傷であるはずだった。しかし、彼の脳は「今、左肩の骨が粉砕された」という絶対的な痛みの信号を受信し、激しい幻痛によってその姿勢を完全に崩したのだ。
「お前……何を、しやがった……!」
ハインツは苦悶に顔を歪め、右手のスタン・ベクターを狂ったように振り回そうとする。だが、陣はその隙を逃さなかった。動かない左半身を引きずりながら一歩前へ踏み出し、ハインツが握るスタン・ベクターのチタン合金のシャフトを、自らの右手で直接掴み取った。
「な、自殺志願者か!」
ハインツがスタン・ベクターの電圧を最大にするトリガーを引いた。数万ボルトの電流が陣の腕を焼き切ろうと奔流となって噴き出す。しかし、陣の右目の格子は、その「電荷の移動方向(電流ベクトル)」を完璧に捉えていた。
(電流は、高電位から低電位へ流れる。その流動の方向を、発射源へ戻る円環状に書き換える――!)
「電磁流動ベクトルの還流制御……!」
陣が叫んだ瞬間、掴んだ警棒の表面を流れるすべての電流が、陣の皮膚に触れる直前で不自然に反転し、円環を描くようにしてハインツの握るグリップへと向けて逆流を開始した。
バリバリバリバリッ――!!!
凄まじい放電音と共に、ハインツの右腕全体が青白い大電流の渦に包まれた。スタン・ベクターのコンデンサが逆流したエネルギーに耐えきれず、グリップの中で爆発的にショートする。ハインツは悲鳴を上げて吹き飛び、コンクリートの壁に激突してそのまま床へと崩れ落ちた。彼の右腕は炭化し、意識を完全に失ってピクリとも動かなくなった。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
陣は、スタン・ベクターの残骸を床に落とし、激しく息を荒くした。脈動計の数値は「一五二mmHg」を示し、警告音が頭痛と同調して鳴り響いている。左肩の骨折の痛みは神経反転で一時的に麻痺しているが、肉体そのものの損傷は治っていない。全身の毛細血管が激しくきしみ、今にも破裂しそうな血の匂いが口の中に広がっていた。
「陣……お前、そこまでの力を……」
拘束されたままの源さんが、血まみれの顔を上げ、驚愕と悲痛が入り混じった目で陣を見つめていた。その時だった。ハインツの首元に装着されていた自動バックアップデバイスが、不気味な赤い光を点滅させ始めた。
『警告:分隊長ハインツのバイタル低下。戦闘ログおよび被験体『ゼロ・ゼロ』の能力波形データを、本陣へ自動送信します……送信完了』
その冷徹な機械音声が、狭い地下作業場に静かに響き渡った。陣たちの位置と、能力の特性が、本陣のガストン大佐へ完全に漏洩した瞬間だった――。
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