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奪われた温もり

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「陣アニキ……源さんの店が……帝国の『ベクター・ハンター』に包囲された……!」


 タクトの悲痛な叫びが、湿った地下壕「ひだまり荘」の薄暗い通路に響き渡った。


 その言葉が、陣の脳内に冷たい衝撃となって突き刺さる。ドクン、と心臓が不気味な脈動を刻んだ。左手首の「脈動計」が微かに明滅し、一三五mmHgを示していた数値が、一三八、一四〇へと再び上昇の兆しを見せ始める。先ほど鉄二が強引に飲ませてくれた「高血圧抑制ナノカプセル」の効果で一度は落ち着いたものの、精神的な激動は、脆い脳血管に容赦なく圧力をかけていく。


「キィィィン……」


 左耳の奥では、先ほどドローンを欺くために『音波振動反射(防音壁生成アルゴリズム)』を限界出力で起動した代償である、耳を刺すような金属音が鳴り響いていた。タクトの声が、まるで水の中にいるかのように遠く、くぐもって聞こえる。だが、その言葉の意味だけは、陣の思考を氷のように凍りつかせた。


「源さんの店が……包囲された……?」


 陣は震える声で呟いた。彼の唯一の理解者であり、このスラムで自分と紗季を実の子のように育ててくれた、頑固だが温かい老技術者。その顔が脳裏をよぎる。


「ああ、間違いない」タクトは泥まみれの膝を震わせながら、必死に言葉を繋いだ。「帝国の特殊追跡部隊だ。ハインツとかいう冷酷そうな男が、機械化されたサイボーグ犬を引き連れて、東部ブロックの店を完全に封鎖した。アニキがこれまでの戦闘で使った力の『残存波形』を、あの鉄の犬どもが嗅ぎ当てちまったんだ……!」


 残存波形――ベクトルの反転。陣が物理法則を拒絶し、運動エネルギーの極性を書き換えるたびに、空間の並進対称性は一時的に破られ、微細な『歪み』が光の塵のようにその場に残留する。帝国軍の専門組織である「ベクター・ハンター」は、その空間のバグを検知する特殊なセンサーを実戦配備していたのだ。


「俺のせいだ……」


 陣は、硬直しかけた自身の左手をじっと見つめた。指先にはまだ軽い痺れの残響が残っており、思い通りに動かない。彼が力を使い、スラムの仲間を守ろうと足掻いた結果が、最愛の育ての親を死線へと追いやった。その事実が、彼の胸を激しく締め付ける。


「自分を責めてる暇はねえぞ、陣」


 鉄二が、ずぶ濡れの逞しい腕で陣の肩をがっしりと掴んだ。脱臼しかけた彼の右肩は、応急処置で固定されているものの、激しい痛みを伴っているはずだった。だが、彼の瞳には、怒りと共に確固たる決意の炎が宿っていた。


「源さんは、お前と紗季の親親父だ。ってことは、俺にとっても親オヤジ同然だ。帝国の犬どもに、あの頑固ジジイを好き勝手させやしねえ」


「でも、鉄二……僕のせいで、店が……」


「だからこそ、奪い返しに行くんだよ!」鉄二は低く吼えるように言った。「タクトの情報によれば、ハインツの目的はお前の首にある『抑制リング』のマスターキーだ。源さんがそれを隠し持っていることを、奴らは突き止めてやがる。あのジジイが口を割ると思うか? 死んでも吐きやしねえ。奴らは、あの人を拷問して殺す気だ!」


 抑制リングの緊急ハッキングキー。それは、陣の脳圧が一五〇mmHgに達した際に起動する強制遮断を一時的にハッキングし、安全リミッターを解除するための唯一の物理デバイスだった。源さんは、陣の母親である矢野恵美からその鍵を託され、今日まで命がけで隠し持ってきたのだ。


「僕も行く」


 暗闇から、静かな、しかし凛とした声が響いた。包帯で左目を覆った少女――千代田暦が、壁に寄りかかりながら一歩前に踏み出した。彼女の「ラプラス・アイ」は、先ほどのマッハ五の砲弾予測の過負荷によって一時的に沈黙している。それでも、彼女の右目の青い瞳は、陣を真っ直ぐに見つめていた。


「暦、君は休んでいてくれ。目はまだ……」


「私の予測能力がなければ、あなたはハインツのセンサー網に近づくことすらできないわ」暦は毅然と言い放った。「ベクター・ハンターの追跡犬は、空気中の電磁ベクトルの乱れに極めて敏感。あなたの『質量ゼロ化』や『反射』の微弱な波形すら、数キロ先から探知する。私の目が、敵のセンサーの死角となるルートを計算するわ。行きましょう、陣」


 陣は、彼女の言葉にある揺るぎない信頼を感じ、黙って頷いた。今の陣には、拒絶する選択肢など存在しなかった。


「技術的なサポートは、俺がやる」


 ジャンク屋の助手であるシンが、油汚れのついたつなぎのポケットから、手製の電波妨害装置(ジャマー・ノイズ)を取り出した。丸眼鏡の奥の瞳が、静かに光る。


「源さんから教わった帝国の通信プロトコルを応用して、ショップの周囲に展開されている偵察ドローンの通信網を一時的にショートさせる。稼働時間は三分が限界だけど……その間に、あんたたちが潜入する隙を作る」


「三分か。上等だ」鉄二が、重機関銃「ベヒーモス」のボルトを引き、金属音を響かせた。「作戦はこうだ。俺と自警団の生き残りどもが、正面からショップの憲兵警備隊に突撃をかます。派手に暴れて、奴らの注意を完全に引きつける。ハインツの目が俺たちに向いている隙に、陣、お前と暦は地下配管――『迷宮配管』を通って、ショップの真下にある地下作業場へ潜入しろ」


 正面突破は自殺行為。だからこそ、生身の鉄二たちが囮となり、陣が「質量ゼロ化(慣性相殺)」を用いて、最もセンサーに引っかかりにくい隠密ルートを選択する。それが、源さんを人質に取られる前に救い出す唯一の勝路だった。


「……わかった。みんな、命を預ける」


 陣は深く呼吸をし、血流を減速させるイメージを描いた。脳圧は一三五mmHg。これ以上の戦闘は即死への片道切符。だが、胸の奥で燃え上がる静かな怒りが、彼の肉体の恐怖を完全に麻痺させていた。


     *


 酸性雨がトタン屋根を激しく叩く音が、東部ブロックの闇に響いていた。


 源さんのジャンクショップ。かつては鉄屑と錆びたスパナが山積みにされ、ストーブの温もりと機械油の匂いが漂っていた陣の家は、今や冷徹な軍事境界線と化していた。


 店の周囲は、「ベクター・ハンター」第3分隊の黒い装甲車によって完全に包囲され、雨の中に不気味な赤いセンサー光が幾重にも交差している。


「ガハッ……!」


 ショップの地下作業場。冷たいコンクリートの床に、源さんは四肢を鎖で縛り付けられ、金属製の椅子に固定されていた。彼の白髭は赤黒い血で染まり、呼吸をするたびに、折れた肋骨がきしむ凄まじい激痛が全身を走る。


「しぶとい老人だ。元帝国のA級技術官ともあろう者が、このようなスラムのゴミ溜めで、クローンの失敗作の守護者を気取るとはな」


 源さんの目の前に立つ男――特殊追跡部隊長ハインツは、冷酷な眼差しで、手に持った電磁警棒「スタン・ベクター」を弄んでいた。彼の周囲では、サイボーグ化された凶暴な軍用犬「フェンリル」が、金属の牙を剥き出しにして低く唸っている。


「失敗作、だと……?」


 源さんは血の混じった唾をハインツのブーツに向けて吐き捨て、不敵に笑った。


「笑わせるな、帝国の犬め。あの子は……陣は、お前たちの玩具じゃない。恵美さんが命をかけて、人間として育てるために、この俺に託したんだ。お前たちのような、物理法則を兵器としか思わん奴らに、あの子の未来を渡してたまるかよ……!」


 源さんの脳裏に、かつて帝国研究所から逃亡してきた矢野恵美の、疲れ果てた、しかし我が子を見つめる優しい瞳がよぎる。恵美は死の間際、陣の首に真鍮の首輪をはめ、源さんの手を握りしめて言ったのだ。――『源さん、このリングはあの子を縛る枷じゃない。あの子の脳が、神の全能の力に焼き切られないための、最後の守りなの。いつかあの子が、自分の意志で力を使う時まで、どうか、あの子を人間に留めておいて』。


 その約束が、今も源さんの折れかけた魂を支えていた。右脚の義足の奥に隠された、リングの緊急ハッキングキー。それは、彼の命そのものだった。


「無駄な感傷だ」ハインツは冷酷にスタン・ベクターのスイッチを入れた。青白い高電圧の放電火花が、暗い作業場を照らす。「お前が口を割らなくとも、私の『ベクター・トレース』からは逃れられん。あのバグが、この店に帰ってくるのは時間の問題だ。その前に、お前の頑固な骨を一本ずつ粉砕してやろう」


 ハインツが電磁警棒を振り下ろそうとした、その瞬間だった。


 ビィィィィィィン――!!


 ショップの外部で、突如として激しい高周波のノイズが炸裂した。シンの開発した電波妨害装置が起動したのだ。周囲を警戒していた偵察ドローンが、一斉に制御を失って火花を散らし、通信網が完全に遮断される。


「何事だ!?」


 ハインツの部下が無線機を叩くが、砂嵐の音しか返ってこない。直後、ショップの正面入口から、凄まじい重低音の銃声が響き渡った。


 ダダダダダダダダダダダダッ!!!


「オラァッ! 帝国の野良犬ども! 自警団のお通りだッ!!」


 鉄二が担いだ五〇口径重機関銃「ベヒーモス」が、火を噴いた。時速数百キロメートルで放たれる徹甲弾の嵐が、ショップの正面装甲を容赦なく引き裂き、警備の憲兵たちをなぎ倒していく。激しい銃撃戦の轟音と爆発の衝撃が、地下の作業場にまで地鳴りとなって伝わってきた。


「正面からの強襲か。愚かな難民どもめ」ハインツは冷笑を浮かべ、部下に指示を出した。「地上部隊を増援に向かわせろ。私はここで、鼠が這い出てくるのを待つ」


 その時、作業場の隅にある錆びた排水管のハッチが、音もなくスライドした。


 陣と暦は、酸性泥水が流れる「迷宮配管」を潜り抜け、ショップの地下へと侵入していた。陣は「質量ゼロ化(慣性相殺)」を起動し、自身の肉体の慣性ベクトルを完全に消去することで、足音も、衣類の擦れる音すらも立てずに、闇の中を滑るように移動していた。


(源さん……今、助ける!)


 陣の右目の奥で、空間の物理的な『圧力分布』が青い幾何学的な格子として視覚化されていた。作業場の中央に囚われた源さんと、その前に立つハインツ。ハインツの右腕には、空間のベクトルの乱れを感知する「ベクター・トレース」のセンサーが装着されている。


 陣は息を殺し、ハインツの背後へと無音で接近した。彼の左手には、床から拾い上げた重いスチール製のスパナが握られている。陣は能動的な攻撃を行わない。だが、スパナをハインツの足元へ滑らせ、その軌道を『多重ベクトル偏向』で直角に曲げることで、ハインツが手に持つ電磁警棒を強引に叩き落とし、武装を解除する。それが、最小限の脳負荷で源さんを救い出すための、陣の精密な戦術計算だった。


 陣が、スパナを投げようと、腕を静かに引いた、その瞬間。


 ピピッ、ピピピピピピピピッ――!!!


 ハインツの右腕に装着されたセンサーが、狂ったような警告音を鳴らし響かせた。空間全体の「対称性の乱れ」を検知する、ベクター・トレースの針が限界まで振り切れている。


「――捉えたぞ、バグめ」


 ハインツが、不気味な笑みを浮かべて突如として振り返った。


 陣の「質量ゼロ化」は、自身の慣性を相殺することで『音』を消し去る。しかし、質量という物理定数を空間から一時的に消去すること自体が、空間全体の並進対称性を著しく破壊する『最大級の空間のバグ』だったのだ。ハインツのセンサーは、音や光ではなく、陣が能力を使用したという『物理法則の歪みそのもの』を正確にトレースしていた。


「しまっ……!」


 陣が息を呑んだ瞬間、ハインツは口元を歪め、鋭い口笛を吹いた。


「殺せ、フェンリル!」


 暗闇の中から、赤い光学の瞳を輝かせたサイボーグ軍用犬が、凄まじい金属の駆動音を響かせて跳ね上がった。高周波で振動するチタン合金の牙が、逃げ場のない狭い作業場で、陣の喉元に向けて真っ直ぐに迫り来る――。

HẾT CHƯƠNG

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