静かなる逃亡
硝煙と酸性雨が混ざり合う、不快な生暖かい風がエリア零の瓦礫を撫でていく。上空で弾けた数百万ジュールの自滅の光はすでに消え失せ、残されたのは、重金属の煤煙に汚れた暗黒の夜空だけだった。
「……くっ、あ、はぁ、はぁ……っ!」
矢野陣は、自警団長である鉄二の、岩のように頑丈な背中に背負われながら、荒い呼吸を繰り返していた。動くたびに、首元の真鍮製「抑制リング」がじりじりと皮膚を焼き、頸動脈を締め付けるような鈍い振動を伝えてくる。
左手首の「脈動計」は、未だに「一四五mmHg」という危険な数値を赤く点滅させていた。安全限界である一四〇mmHgを突破した代償は、陣の華奢な肉体を容赦なく蝕んでいる。右目の視野は、内出血による暗い赤色に染まったままで、世界の半分が血の霧に沈んだようにしか見えない。こめかみを太い釘で貫かれたような激しい偏頭痛が、一拍ごとに脳髄を激しく揺さぶっていた。
「おい、陣、しっかりしろ! 意識を飛ばすんじゃねえぞ!」
鉄二の野太い声が、泥濘を踏み締める重い足音と共に響く。鉄二は、その強靭な左腕で陣の体を背中に固定し、もう一方の右腕には、防塵マスクをはめた十二歳の少女――陣の妹である紗季を抱き抱えていた。
「う……お兄、ちゃん……。はぁ、く、っ……」
鉄二の腕の中で、紗季が苦しげに胸をかきむしる。彼女の喉を守る防塵マスクのフィルター、スラムの闇市で手に入れた「汚染除去濾過フィルター『クリーン・コア』」は、すでに限界を迎えていた。度重なる砲撃によって舞い上がった重金属粒子と硝煙が、フィルターの微細なナノスリットを完全に目詰まりさせているのだ。機能不全に陥ったフィルターは、汚染された空気を防ぐどころか、彼女の肺に必要な酸素すら遮断し始めていた。
「紗季……すまない、僕が、もっと早く新しいフィルターを……」
陣は掠れた声で呟こうとしたが、言葉にならず、ただ熱い血が口元から溢れた。懐には、闇市で命がけで手に入れた「高血圧抑制ナノカプセル」の小瓶がある。だが、全身の筋肉が鉛のように硬直しており、ポケットに手を入れることすら叶わない。今、能力を一度でも起動すれば、脳圧は確実に一五〇mmHgに達し、抑制リングの強制シャットダウンが起動して、自分は完全な仮死状態に陥るだろう。そうなれば、この泥濘の中で妹を守る術は完全に失われる。
「弱音を吐くな、陣! お前はあの電磁徹甲弾を跳ね返して、俺たち全員を救ってくれたんだ。今度は俺が、お前たちを『ひだまり荘』まで送り届ける番だ!」
鉄二はタンクトップ一枚の体に酸性雨を浴びながら、力強く宣言した。彼の胸元には、帝国のパワードスーツの残骸から剥ぎ取った「電磁シールド防弾ベスト」が鈍く光っている。手製の防具だが、その電磁プレートは、わずかながらに周囲の熱源を遮断する効果を持っていた。
彼らの数歩後ろを、千代田暦が stumbles しながら付いてきていた。彼女の「ラプラス・アイ」は完全に沈黙し、左目の包帯からは今も薄赤い血が滲み出ている。彼女の予測能力もまた、限界を迎えていた。
「鉄二、立ち止まらないで……。帝国の『第四号監視塔』が起動したわ。自動掃討システムの索敵周波数が、このエリア一帯へ向けて拡大している……!」
暦の掠れた警告が、雨音に消されかける。その言葉を証明するかのように、はるか上空の暗闇から、不気味な高周波の風切り音が聞こえ始めた。
ブゥゥゥゥゥン――
それは、帝国の第十七砲兵連隊が放った、自律型偵察ドローンの駆動音だった。スラムの瓦礫の上を、円盤型の冷徹な機械が滑るように飛行してくる。ドローンの下部からは、生物の網膜や熱源、そして微細な音響振動を感知する赤色のセンサー光が、鋭い針のように地表をなぞっていた。
「チッ、野良犬どもが、もう嗅ぎ付けやがったか!」
鉄二は素早く周囲を見回し、半壊したコンクリートビルの影へと滑り込んだ。崩れた梁の隙間に身を潜め、鉄二は自身の背中から陣をそっと降ろし、紗季を隣に横たえた。
直後、彼らの頭上を、赤いサーチライトの光がゆっくりと通過していく。コンクリートの破片が赤く染まり、不気味な熱線を反射した。
「く、ふぅ……っ、ごほっ、ごほっ!」
突然、紗季の小さな喉が激しく痙攣した。目詰まりしたフィルターのせいで、彼女の肺が限界に達し、激しい咳が漏れそうになる。静まり返った夜の廃墟で、その音響振動が響けば、ドローンの超高感度ソナーに一瞬で捕捉されるのは明白だった。
「しまっ――」
鉄二が瞬時に自身の「電磁シールド防弾ベスト」を引き剥がし、その厚い特殊繊維の布地で紗季の口元を強引に覆った。しかし、完全に音を消し去ることはできない。防弾ベストの繊維の隙間から、くぐもった「ひゅう、ひゅう」という喘鳴と、微細な空気の疎密波が外部へと漏れ出していく。
上空のドローンの駆動音が、ピタリと変化した。ホバリングのピッチが上がり、赤いセンサー光の円が、彼らの隠れているビルの影へとゆっくりと引き返してくる。
(ソナーが、紗季の呼吸音を検知した……!)
陣の脳内で、冷徹な計算が始まった。右目の血の霞の向こうで、ドローンが発する音響スキャンの『ベクトル線』が、目に見えない波形となってこちらへ伸びてくるのが見えた。
(このままでは見つかる。だが、僕が『ベクトル反転』を使えば、脳圧は確実に臨界点に達して僕は失明、あるいは即死する。……いや、違う。空間全体を支配する必要はない。紗季の口元から漏れる、あのわずかな『空気の振動ベクトル』だけを曲げればいい!)
陣は、亡き母の「誰も傷つけてはならない」という誓いを胸の奥で強く抱きしめた。これは攻撃ではない。ただ、妹の命の音を守るための防衛だ。
(ランクE――『微小ベクトル偏向』。音波振動反射・防音壁生成アルゴリズム、起動……!)
陣は、震える右手を紗季の防塵マスクの前にそっとかざした。皮膚表面からわずか数ミリメートルの領域に、極小の並進対称性の「歪み」を発生させる。彼が展開したのは、音を跳ね返す巨大な壁ではない。紗季の口元から漏れ出る「音波の疎密波ベクトル」の進行方向を、直角に捻じ曲げ、上空ではなく「周囲の肉厚なコンクリート瓦礫」へと吸着させる幾何学的な偏向パスだ。
ごきっ、と、陣の脳の奥で、何かが千切れるような音がした。
「う、ぐあぁっ……!」
脈動計の数値が、一四五から一四六mmHgへと静かに跳ね上がる。右目の端から、熱い血が新しい一筋となって頬を伝い、ぬかるんだ土へと落ちた。首元の真鍮リングがバチバチと電磁スパークを散らし、皮膚が焦げる悪臭が漂う。だが、陣は演算の手を緩めなかった。
その瞬間、紗季の喉から漏れた「ごほっ」という最後の咳の音波は、上空へ伝わる直前で不自然にその針路を真横へと曲げられた。音波は、隣に転がっていた湿ったレンガの隙間へと吸い込まれ、完全に減衰して消滅した。
上空のドローンは、一瞬だけホバリングを維持したまま、ソナーの受信データを再計算するように不気味に静止した。音源が突如として消失したことに、AIが一時的なエラーを起こしているのだ。
「おい、陣、無茶しやがって……!」
鉄二が低い声で呻き、陣の血まみれの顔を見て歯を食いしばる。だが、ドローンはまだ去っていない。それどころか、異常な「熱源(紗季の発熱)」を再検知しようとするかのように、さらに高度を下げ始めた。
ブゥゥゥゥゥン――
頭上わずか数メートルの位置まで、金属の蜘蛛が降下してくる。赤いセンサー光の鋭い光軸が、陣の隠れている瓦礫のすぐ手前、わずか数センチメートルの泥水をじりじりと照らし出した。光が泥を蒸発させ、微かな水蒸気が立ち上る。
陣の指先は、コートのポケットにある「ナノカプセル」の小瓶に触れていた。だが、感覚の失われかけた指は、小瓶の蓋を開ける力すら残されていない。赤い光が、ゆっくりと、彼らの靴元へと迫っていた――。
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