未来を告げる少女
肺を焼き、皮膚を侵食する酸性雨が、スラム街「エリア零」のトタン屋根を激しく叩きつけている。夜の闇は重金属を含んだ紫色の霧に覆われ、視界を極端に狭めていた。
「はぁ、はぁ……、くそっ……」
矢野陣は、ぬかるむ泥に足を取られながら、這うようにして「源さんのジャンクショップ」の裏口へと辿り着いた。ボロボロの灰色の作業着は酸性雨を吸って重く冷たく、肌に張り付いている。
だが、そんな寒さなど、今の陣にとっては些細な問題でしかなかった。
どくん、と心臓が脈打つたびに、右目の奥に焼けつくような激痛が走る。まるで脳の髄に直接、熱した太い釘を打ち込まれているかのようだった。鼻の粘膜から垂れた冷たい鮮血が、顎を伝って泥の中に落ちていく。左手首の「脈動計」に目を落とすと、赤く点滅する液晶が「一三八mmHg」という数値を冷酷に示していた。
安全限界である一四〇mmHgまで、あとわずか二。首元に嵌められた真鍮製の「抑制リング」が、頸動脈を締め付けるようにジリジリと不気味に振動し、熱を帯びている。脳圧がこれ以上上昇すれば、この首輪のセーフティが作動し、陣の脳波を強制的にシャットダウンする。そうなれば、意識を失い、二度と目覚めないかもしれない。
陣は震える手で裏口の錆びた鉄扉を押し開けた。機械油の匂いと、古い溶接の煙が混ざり合った、慣れ親しんだ空気が鼻腔をくすぐる。
「源さん……、戻ったよ」
作業台で巨大な電磁自走砲の駆動タービンを分解していた隻脚の男――源さんが、義足をきしませながら勢いよく振り返った。白髭に汚れた作業服を着たその顔が、陣の姿を見た瞬間に険しく歪む。
「陣! おめえ、その面はなんだ! また力を使ったな!」
「……これ、闇市で、手に入れたよ。紗季の薬と、クリーン・コア……」
陣はコートのポケットから、厳重に梱包された「高血圧抑制ナノカプセル」の小瓶と、空気浄化用の「クリーン・コア」を絞り出すようにして作業台に置いた。
「バカ野郎が! 誰が自分の命を削ってまで持ってこいと言った!」
源さんは怒鳴り散らしながらも、素早い手つきで薬とフィルターをひったくり、奥の部屋へと向かった。そこには、汚染された空気のせいで重度の肺疾患を抱える十二歳の妹、矢野紗季が横たわっている。部屋の隙間から、ひゅうひゅうと掠れた苦しげな呼吸音が聞こえていた。
数分後、戻ってきた源さんは、陣の肩を乱暴に掴んで地下の作業場へと引きずり下ろした。簡易的な無菌室と、錆びたモニターが並ぶ薄暗い空間。陣は金属製の椅子に倒れ込むようにして腰掛けた。
「大人しくしてろ。リングの調整をする」
源さんが特注の電子ドライバーを手に取り、陣の首元の抑制リングの裏蓋に差し込む。パチパチと微弱な火花が散り、首首に焼けるような熱痛が走った。陣は歯を食いしばり、声を殺して耐える。
「脳圧一三八か……。バカめ、一五〇に達すりゃ脳底動脈瘤が一瞬で破裂して即死だぞ。あの『メタル・フィスト』のゴライアスの質量をまともに反射しやがって。並進対称性の操作は、対象の質量が大きければ大きいほど、お前の脳血管にかかる負荷が跳ね上がる。母さんの遺した封印がなけりゃ、お前の頭は今頃スイカみたいに弾け飛んでるんだぞ」
「わかってる……。でも、そうするしかなかったんだ」
「わかってねえから言ってるんだ!」
源さんは毒づきながらも、ドライバーの出力を微調整し、リングの冷却冷媒を強制循環させた。首元を氷のような冷気が包み込み、ようやく頭痛がわずかに和らいでいく。
「……吸って、吐いて、脈を落とせ。あの呼吸法だ」
源さんの言葉に従い、陣は静かに目を閉じた。亡き母から教わった、そして源さんとの訓練で叩き込まれた呼吸調整法「血流減速・脈拍同調」。
深く息を吸い込み、四秒かけて肺を満たし、八秒かけてゆっくりと吐き出す。頸動脈を流れる血液の「流動速度(ベクトル)」を、脳内でイメージとして捉え、その運動量を少しずつ、均一に減速させていく。心臓の拍動を意図的に毎分四十回まで引き下げる。心拍の振動ベクトルが周囲の静寂と同調していく感覚。
脈動計のデジタル数値が、一三五、一二八、そして一一五mmHgへと静かに降下していった。偏頭痛が引き、視界を覆っていた赤い霞が薄れていく。
「ふぅ……」
陣が息を吐き出し、目を開けたその瞬間だった。
ビーーーー、と、地下室の防犯モニターが不気味な警告音を鳴らした。熱線センサーが、ジャンクショップの敷地内に侵入する「動体」を感知している。
「憲兵か……!? いや、動きが速すぎる。一人だ」
源さんが錆びた鉄パイプを握り締め、警戒の姿勢をとる。だが、陣はそれを手で制した。右目の奥に定着しつつある感覚が、その侵入者の「運動ベクトル」を、壁を透過して捉えていたからだ。ブレのない、直線的で極めて無駄のない足取り。
地下室へと続く錆びた階段が、ギィ、と小さく鳴った。
現れたのは、全身を濡らした紺色のリメイクコートを羽織る少女だった。濡れた黒髪の隙間から、透き通るような青い瞳が陣をじっと見つめている。そして彼女の左目には、異様な存在感を放つ片眼鏡型の超精密予測デバイス「ラプラス・アイ」が装着されていた。そのレンズの奥で、青い幾何学的な光の格子が高速で明滅している。
「……誰だ」
陣は椅子から立ち上がり、冷徹な声を投げかけた。左手は自然と、作業台の上に置かれた重いスチール製のスパナへと伸びる。
「警戒しないで、矢野陣。私は敵じゃない。少なくとも、あなたを捕らえに来たわけではないわ」
少女の声は、驚くほど冷静で、そしてどこか哀しみを帯びていた。
「僕の名前を知っている。それに、その装備……帝国の軍事学校の脱走兵だな?」
陣の問いに、少女は静かに頷いた。
「私は千代田暦。帝国の予測士課程にいたわ。……そして、あなたの『力』を、昼間の闇市で観測させてもらった」
その言葉を聞いた瞬間、陣の全身の神経が極限まで緊張した。自身の正体が露呈している。亡き母との約束、そして紗季を守るための「無能力者」の偽装が、この少女によって完全に破られたのだ。
「口封じをされると思うなら、そうすればいいわ。でも、その前にこれを見て」
暦は懐から小型のポータブル端末を取り出し、空中にホログラムを投影した。そこに映し出されたのは、エリア零を中心とした三次元幾何学グリッドと、上空から降下する無数の赤い「放物線(ベクトル)」だった。
「これは……」
源さんが息を呑む。技術者である彼には、その図が何を意味しているのかが瞬時に理解できた。
「ヴァルハラ帝国軍第17砲兵連隊。彼らは二時間後、このエリア零に向けて『実験的無差別砲撃』を開始するわ。使用されるのは、マッハ五で飛来する超高速電磁徹甲弾。……合計三百六十発。着弾すれば、このスラムは地殻ごと消滅し、生存者はゼロになる」
「そんなデタラメを信じると思うか? 帝国が、ただの難民キャンプをそこまでして破壊する理由がない」
陣は冷ややかに言い放ち、スチール製のスパナを手に取った。そして、あえてそのスパナを指先から滑らせ、床に向けて落下させた。
だが、スパナは床に激突しなかった。
床からわずか一センチメートルの空間で、スパナは重力加速度に逆らい、ピタッと完全に静止したのだ。スパナの持つ「落下ベクトル」を、陣が能力で相殺した結果だった。空気の分子がスパナの周囲で細かく歪み、微弱な青いスパークが走る。圧倒的な力の誇示。いつでもお前を排除できるという、無言の脅迫だった。
しかし、暦は一歩も退かなかった。彼女は左目の「ラプラス・アイ」を青く輝かせ、静止したスパナを凝視した。
「あなたがそのスパナの慣性相殺を解除すれば、スパナは重力加速度九・八メートル毎秒毎秒で落下を再開し、床のボルトに跳ね返って、〇・四二秒後に私の左足首を直撃するわ。……それを避けるために、私は右へ三センチ移動する」
暦が静かに右へ足をスライドさせた瞬間、陣はスパナの能力を解除した。スパナは床のボルトに激突し、金属音を立てて跳ね返り――暦が先ほどまで立っていた左足首の空間を、寸分の狂いもなく正確に通過していった。
陣の目が見開かれる。彼女の「弾道予測能力」は、本物だった。
「私のラプラス・アイは、空気抵抗、湿度、重力、そして物体の初期運動ベクトルから、数秒先の未来の軌道を完全に予測する。……そして、私の脳は、その砲撃によってスラムの住民全員が『どのように死ぬか』を視覚的に捉えてしまった」
暦の青い瞳が、激しい苦痛に揺れていた。彼女の左目の端から、過度な演算の代償として、一筋の細い鮮血が流れ落ちる。彼女はその血を拭おうともせず、陣を真っ直ぐに見つめた。
「帝国の予測士は、効率的に人を殺すための『弾道』を計算させられる。私は、自分の目が描き出す無数の『青い死線』に耐えられなくなって逃げ出した。……でも、昼間の闇市であなたを見たわ。あなたの力は、暴力をそのまま相手に送り返す『絶対の盾』。私の予測能力と、あなたの反射能力が合わされば、あのマッハ五の死神をすべて叩き落とせる。難民キャンプを、あなたの妹を救えるわ!」
「共闘しろ、と言うのか? 帝国の脱走兵であるお前を、僕が信じるとでも……!」
陣が言葉を荒らげた、その時だった。
天井の隙間から、激しい、そして肺を引き裂くような咳き込みの音が聞こえてきた。紗季だ。クリーン・コアを取り替えたばかりの部屋でも、酸性雨によって活性化した重金属汚染物質が、彼女の小さな肺を容赦なく蝕んでいる。
「お兄ちゃん……、ゲホッ、ゲホッ……! 苦しい、よ……!」
紗季の悲痛な叫びが、床板を通して地下室に響き渡る。
陣の心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。脈動計の数値が、一瞬にして一三〇mmHgへと急上昇する。妹の危機は、彼の血流ベクトルを暴走させる最大のトリガーだった。
「紗季……!」
陣は階段へ向かおうとしたが、その足を止めた。暦の提示したデータが、脳裏で冷酷な事実を突きつけていたからだ。二時間後。いや、すでに時間は刻一刻と削られている。今ここで避難を始めたとしても、この病弱な紗季を連れて、マッハ五の電磁砲弾の射程範囲外まで逃げ延びることなど、物理的に不可能だ。
逃げ場はない。戦うか、それとも全員で灰になるか。
陣は暦をじっと見つめた。彼女の左目から流れる血は、嘘偽りのない「代償」の証だった。彼女もまた、自身の肉体を崩壊させながら、その予測能力を使っているのだ。自分と同じように、限界を抱えながら。
「……わかった。一時的な同盟だ。ただし、僕の妹に少しでも不審な動きを見せたら、その瞬間にあなたの運動ベクトルをゼロにする」
「ええ。それで構わないわ、矢野陣」
暦は静かに微笑み、ラプラス・アイのバイザーを調整した。二人の間に、命を預け合う不格好な共闘関係が結ばれた瞬間だった。
だが、世界の物理法則は、彼らに作戦を練るための猶予すら与えなかった。
突如として、地下室全体のコンクリート壁が、メキメキと音を立てて激しく振動し始めた。天井から錆びた鉄粉が雪のように舞い落ちる。
「な、なんだ!? 地震か!?」
源さんが叫び、作業台にしがみつく。だが、それは地殻変動などではなかった。
ズゥゥゥゥン――!!
はるか数キロメートル先、エリア零を見下ろす高地に陣取ったヴァルハラ帝国軍第17砲兵連隊の本陣から、巨大な電磁投射砲が放たれた、地鳴りのような不気味な発射音がスラムの夜空に重々しく鳴り響いた。
空気をプラズマ化させ、マッハ五の速度で飛来する第一波の超高速弾が、すでに放たれたのだ。着弾まで、あと数十秒。
「来たわ……!」
暦のラプラス・アイが、かつてないほどの青い光を放ち、彼女の網膜上に、夜空を切り裂く巨大な「死の未来線」を描き出し始めた。
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