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闇市の鉄拳

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重金属を含んだ酸性雨が降り注ぐ「エリア零」の泥濘から逃れるようにして、矢野陣は地下へと続く薄暗い階段を下りていた。首元に嵌められた真鍮製の「抑制リング」は、先ほどの憲兵隊長ミュラーとの戦闘による余熱を帯び、今なお頸動脈の奥でチリチリと不気味な警告振動を繰り返している。


「はぁ、はぁ……っ」


陣は左手首の「脈動計」に目を落とした。デジタル液晶が示す脳圧は「一二五ミリメートル水銀柱(mmHg)」。安全限界である一四〇mmHgまでは辛うじて余裕があるが、ゼロ距離反射を起動した代償は、脳組織を内側から針で刺すような、きしむ偏頭痛となって彼を苛んでいた。


一歩歩くたびに、視界の端がチカチカと明滅する。このままでは、自宅で待つ妹の紗季に薬を届けるどころか、自分自身が脳出血で倒れてしまう。紗季の肺疾患の治療薬、そして自身の脳圧上昇を一時的に抑えるための「高血圧抑制ナノカプセル(初期型)」――それらを手に入れるためには、スラムの最下層に広がる無法地帯、闇市「ブラック・ジャンクション」へ潜入するしかなかった。


湿った地下通路の奥から、饐えた金属の匂いと、生体運動エネルギーを圧縮した使い捨てバッテリー「ジュブ」の放電音が漂ってくる。錆びついた鉄扉を潜り抜けると、そこはかつての地下鉄廃駅を不法占拠して作られた、光と闇が交錯する巨大な闇市場だった。


剥き出しの配線から漏れる不規則な火花が、ひび割れたコンクリートの壁を照らし、怪しげな密売人やジャンク屋たちがジュブ・チップを握りしめて怒鳴り合っている。陣はボロボロのコートのフードを深く被り、群衆に紛れながら、スラムを牛耳る悪徳マフィア「バルト一味」の縄張りへと足を進めた。


「おい、小僧。場違いなところへ迷い込んだな」


目的の路地の奥、肉厚な毛皮のコートを着た恰幅の良い男が、太い指に嵌めた無数の金の指輪を光らせて陣を見下ろしていた。バルト一味のボス、ドン・バルトだ。その傍らには、彼の用心棒である「鉄腕のゴライアス」が、岩のような巨体を揺らして立ちはだかっている。


「ドン・バルト……『高血圧抑制ナノカプセル』の初期型が欲しい。これと、呼吸器の濾過フィルターだ」


陣は掠れた声で交渉を切り出し、麻袋から今日拾い集めた帝国軍の軍用電子基板を差し出した。だが、バルトはそれを鼻で笑い、葉巻の煙を陣の顔に吹きかけた。


「そんなゴミ屑で、帝国の最先端医療品が買えると思っているのか? ナノカプセルが欲しければ、五〇〇〇ジュブ――お前の生体エネルギーを限界まで絞り取って支払ってもらおうか」


「そんな無茶な……。五〇〇〇ジュブなんて吸い取られたら、生きていられない」


「なら、交渉は決裂だ。その首のリング、面白そうな技術だな。力ずくで剥ぎ取って、闇市で売り払ってやるよ」


バルトが顎で合図を送ると、用心棒のゴライアスが一歩前に踏み出した。身長二・一メートルを超える巨漢。ゴライアスが両拳を握り締めると、彼の皮膚が鈍い鋼鉄の色へと変色し始めた。彼の超能力「メタル・フィスト」。肉体を瞬間的にチタン合金並みの強度へと金属化させる、純粋な打撃力の怪物だ。


「おい、もやしっ子。その細い首、俺の指一本でへし折ってやるよ」


ゴライアスが不敵な笑みを浮かべ、地面のコンクリートを蹴った。金属化した巨体が、凄まじい突進力で陣へと迫る。その質量運動エネルギーは、常人の肉体を一瞬で挽き肉に変えるほどの威力を持っていた。


(――来る。完全な直線運動だ)


陣は右目の奥に走る偏頭痛を堪えながら、ゴライアスの突進の風圧に身を晒した。マッハに近い突風が陣の華奢な体を揺らし、一瞬、ミリ秒単位の演算タイミングが狂いかける。だが、陣は退かなかった。ここで逃げれば、紗季の未来は潰える。


(脳圧一二五mmHg……。空間全体の偏向は脳への負荷が大きすぎる。最も効率的な戦術を選択する。対象の攻撃は完全な直線。ならば――)


陣は左手首の「脈動計」の警告音を脳内で遮断し、右手のひらをそっと前方に突き出した。回避行動は一切取らない。敵の「破壊の力」をそのまま利用する、徹底した受動的防御。


「死ね、小僧!」


ゴライアスの金属化した巨大な拳が、陣の顔面に向けて放たれた。チタン製のナックルが、陣の皮膚に接触する「一センチ手前」の境界線に達した瞬間、世界の物理法則が書き換えられた。


(ランクD:線形ベクトル反転――起動!)


陣の脳内で、並進対称性を司る物理数式が光速で展開された。ゴライアスの拳が持つ巨大な運動量(質量×速度)をロックオンし、その極性を「一八〇度反転」させる。接触の瞬間、闇市の湿った空気の中に、パチィンと激しい青い電磁スパークが弾けた。


「が、あ……っ!?」


ゴライアスの動きが、完全に静止した。いや、静止したのではない。彼の放った全力のストレートの衝撃エネルギーが、陣の境界線によって完全に反転し、彼自身の腕へと突き抜けたのだ。


エネルギーは、金属化された硬い拳の内部を通り抜け、逃げ場を失って関節部へと集中する。ゴライアスの鋼鉄の腕が、内側から爆発するようにきしみ、次の瞬間、彼の肘関節が逆方向へと強烈にへし折れた。骨と金属化された筋肉が、彼自身の打撃力によって内側から粉々に粉砕される。


「ぎゃあああああああああっ!?」


ゴライアスは悲鳴を上げて床に転がり、破壊された右腕を抱えてのたうち回った。チタン並みの硬度を誇る肉体だからこそ、反転したエネルギーは一切外に逃げることなく、彼の肉体を内側から自壊させたのだ。


「な、何が起きた……!? ゴライアスが一撃で……っ!」


ドン・バルトの顔から血の気が引き、金の指輪を嵌めた手がガタガタと震え始めた。闇市の群衆が水を打ったように静まり返る。陣は冷徹な眼差しでバルトを見つめ、一歩を踏み出した。


「カプセルとフィルターを、置いていけ。これ以上、僕に触れるな」


「ひ、ひぃっ! 持っていけ! 全部持っていけ!」


バルトは腰を抜かしながら、棚から「高血圧抑制ナノカプセル」の小瓶と、濾過フィルターのケースを放り投げ、部下たちに抱えられながら逃げるように走り去っていった。陣は静かにカプセルを拾い上げ、コートのポケットに収めた。


しかし、その瞬間、強烈なバックラッシュが陣の肉体を襲った。左手首の脈動計がけたたましい警告音を鳴らす。液晶に表示された数値は――「一三八mmHg」。安全限界の一四〇mmHgの、まさに直前まで跳ね上がっていた。


「が、はっ……!」


陣は激しい目眩に襲われ、膝を突いた。右目の奥が焼けるように熱く、鼻の粘膜からタラリと冷たい鮮血が垂れて床のコンクリートを汚す。能力を起動するたびに、死の危険が脳内できしむ音を立てて迫ってくる。


ふらつく足取りで闇市の出口へ向かう陣。その満身創痍の背中を、廃駅の錆びついた鉄骨の影から、じっと見つめる青い瞳があった。


紺色のリメイクコートを羽織り、左目に超精密予測デバイス「ラプラス・アイ」を装着した少女――千代田暦。彼女はモノクルのレンズ越しに、陣の周囲で空間のベクトルが美しく、そして完璧な幾何学模様として「整列」し、ゴライアスの拳を跳ね返した瞬間を観測していた。


「……あり得ない。物理法則のバグ……。あの最弱そうな少年が、宇宙の対称性を操っている……?」


暦は驚愕に息を呑み、血を流しながら闇の中へ消えていく陣の姿を、ただ見つめ続けるしかなかった。

HẾT CHƯƠNG

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