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最弱の境界線

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重金属の混ざった酸性雨が、錆びついたトタン屋根を激しく叩いている。空を覆うのは、鉛色の雲と、そのさらに上空にそびえ立つヴァルハラ帝国の巨大な監視塔群。そこから放たれるサーチライトの冷たい光線が、不毛の荒野に穿たれた巨大なクレーター跡――難民キャンプ「エリア零」の泥濘を執拗に舐め回していた。


「おい、陣。そっちの束、手伝うよ」


痩せ細った体躯に、泥まみれの灰色の作業着をまとった少年、矢野陣(ヤノ・ジン)は、背後からの声に足を止めた。振り返ると、同じくボロボロの防護服を着た三十代のジャンク拾い、ピートが、歪んだチタン合金のパイプを抱えて息を切らせていた。


「大丈夫だよ、ピート。これくらい、一人で運べる」


陣はそう言って、肩に担いだ麻袋の位置を直した。その拍子に、首元に嵌められた古びた真鍮製の「抑制リング」が冷たい金属音を立てて鎖骨に擦れる。亡き母、恵美が遺したこの首輪は、陣の皮膚に半ば融合するように装着されており、常に彼の頸動脈の脈動を監視していた。


(……頭痛が、また酷くなってきたな)


陣はこめかみを指先で押さえた。左手首に巻かれた手製の「脈動計」に目を落とすと、血圧の数値は「115mmHg」を示している。帝国の「プロジェクト・ベクトル」が遺した神格遺伝子の活動を強引に眠らせるための封印。それがこのリングであり、能力を使わずとも、慢性的な高血圧と、脳内にきしむような鈍痛を陣に与え続けていた。


自宅では、病弱な妹の紗季(サキ)が、汚染された空気に肺を蝕まれながら、兄の帰りを待っている。今日拾ったスクラップを闇市で「ジュブ(生体エネルギー)」に換えなければ、彼女の治療薬を買うことはできない。陣にとって、この最悪なスラムでの生存こそがすべてだった。


だが、彼らの行く手を阻むように、泥水を跳ね上げて一台の軍用車両が滑り込んできた。車体には、エリア零治安維持局の冷酷な紋章が刻まれている。


「おい、そこのゴミ虫ども。止まれ」


ドアが開き、降りてきたのは帝国憲兵隊長のミュラーだった。恰幅の良い体躯を派手な憲兵制服で包み、傲慢な笑みを浮かべた男。その後ろには、電磁アサルトライフルを構えた巡回兵たちが控えている。


「ひっ……!」


ピートが恐怖のあまりその場に膝をつき、抱えていたチタンパイプを泥の中に落とした。陣は静かに目を伏せ、無能力者のジャンク拾いを装って一歩下がった。普段、陣が使っているのは「ランクE:微小ベクトル偏向」。舞い散る砂埃や小石の進行方向を、皮膚から数ミリの範囲でわずかに曲げて避けるだけの、戦闘には到底使えない極小の力だ。帝国の監視の目を欺くには、この最弱の姿を維持し続けるしかなかった。


「ミュラー隊長……どうか、見逃してください。これはただの廃棄物です。紗季の薬を買うための……」


「黙れ、スラムの家畜が」


ミュラーは陣の言葉を遮り、泥の中のチタンパイプをブーツの先で小突いた。


「これは帝国第17砲兵連隊の装甲車の残骸だな? 許可なく軍用金属を回収することは、国家資産の窃盗にあたる。重罪だぞ、ピート」


「そんな! これはスクラップマウンテンのゴミ捨て場に転がっていたもので……!」


ピートが悲鳴のような声を上げる。だが、ミュラーはその言い訳を聞く耳を持たなかった。彼は腰のホルダーから、一本の伸縮式チタン合金製警棒を引き抜いた。電磁警棒「スタン・ベクター」。グリップのスイッチが入った瞬間、警棒の先端部から青白い放電火花が散り、空気を引き裂くような高周波の駆動振動音が響き渡った。


「反抗的な家畜には、調教が必要だな」


ミュラーは容赦なくピートの腹部を蹴り倒した。ピートは泥濘の中に転がり、苦悶に喘ぐ。ミュラーは冷酷な笑みを浮かべたまま、スタン・ベクターを両手で握り直し、ピートの頭部に向けて容赦なく振り下ろした。数万ボルトの電流と、骨を粉砕する超高周波振動。それが直撃すれば、生身のピートの頭蓋骨は一瞬で消し飛ぶ。


(――動くな、と母さんは言った)


陣の脳裏に、亡き母の「誰も傷つけてはならない」という誓いがよぎる。しかし、目の前で無抵抗の友人が殺されようとしている。その理不尽な暴力(運動エネルギー)を、見過ごすことなどできなかった。


「やめろ!」


陣の華奢な肉体が、泥を蹴って滑り込んだ。筋力でミュラーを押し戻そうとしたが、無能力者の偽装を解かない肉体では力負けし、直接打撃を受ける位置まで追い込まれる。だが、それこそが陣の計算通りだった。


「邪魔をするな、小僧!」


ミュラーのスタン・ベクターが、軌道を曲げて陣の左腕へと直撃する。凄まじい衝撃力と、触れた瞬間に細胞を破壊する高圧電流。それらが陣の肉体に達する――その「1ミリ手前」の境界線において、世界の物理法則が静かに、そして絶対的に書き換えられた。


(ゼロ距離反射演算アルゴリズム――起動)


陣の脳内で、空間の並進対称性を司る極限の数式が展開された。力、速度、電荷の流動。迫り来るすべての物理運動ベクトルをロックオンし、その極性を「180度反転」させる。空間全体の計算を省き、自身の皮膚表面わずか1ミリの境界領域に演算を集中させることで、脳圧の上昇を極限まで抑える裏技。


接触の瞬間、パシィンと鼓膜を裂くような青い電磁火花が走った。


「なっ……!?」


ミュラーの傲慢な笑みが凍りついた。スタン・ベクターから放たれた数万ボルトの電流と、叩きつけられた打撃の衝撃エネルギーが、陣の腕を破壊することなく、完全に同じ軌道を逆行したのだ。エネルギーは警棒のチタン合金の内部を還流し、グリップを握っていたミュラーの右腕へと一気に逆流する。


「ぎ、ああああああああっ!?」


凄まじい爆発音と共に、スタン・ベクターが内側から飴細工のように裂けて暴発した。ミュラーの右腕の骨が、自身の放った打撃の衝撃波によって粉々に粉砕され、皮膚を引き裂いて鮮血が噴き出す。電流の逆流によって筋肉が一瞬で炭化し、ミュラーの巨体は泥濘の中へと無残に転がった。


「隊長!?」


後方にいた巡回兵たちが驚愕し、電磁アサルトライフルの銃口を陣へと向けようとする。だが、陣はすでに一歩下がっていた。彼の左手首の「脈動計」が激しく明滅し、血圧の数値が「125mmHg」まで急上昇している。安全限界である140mmHg以下ではあるが、脳の毛細血管が悲鳴を上げ、こめかみの奥で脳組織が焼け付くような、きしむ頭痛が陣を襲った。


「ひ、退け! 退くんだ!」


右腕を失い、泥まみれになってのたうち回るミュラーが、恐怖に引き攣った声で叫んだ。巡回兵たちは、目の前で起きた「物理法則のバグ」に怯え、ミュラーを抱え上げて大急ぎで軍用車両へと逃げ込んでいく。車両はエンジンを唸らせ、逃げるように走り去っていった。


「……陣、お前……一体……」


泥の中から立ち上がったピートが、信じられないものを見る目で陣を見つめていた。陣は激しい目眩に耐えながら、首元の「抑制リング」をそっと手で覆った。


チリ、チリ、と真鍮のリングが不気味に異常発熱を始め、微弱な警告振動が陣の頸動脈を叩く。ミュラーの腕を粉砕したことで、エリア零治安維持局の警戒レベルが上昇し、このリングの封印システムが陣の「能力使用」を感知し始めたのだ。スラムの日常に潜む理不尽な暴力を跳ね返した代償。それは、陣の脳内にきしむ不穏な残響となって、彼を死線へと引きずり込もうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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