過熱蒸気の地獄と絶体絶命の包囲
「逃げ場はないぞ、死神!」
ガスマスクの奥で、ガスの濁った笑い声が響き渡る。それと同時に、背後の排気口から噴き出した摂氏二百度の過熱蒸気が、狭い通路を瞬く間に埋め尽くした。視界は一瞬で真っ白な地獄へと変わり、息を吸い込むことすら許されない高熱の檻が、凍夜たちを完全に包囲した。
「ぐあああっ……熱ぃっ、皮膚が……!」
ハルトが悲鳴を上げ、喉をかきむしる。彼の右手の指先は、以前に凍夜に触れたことで負った軽い凍傷で白く変色していたが、今度はその手を摂氏二百度の熱風が容赦なく焼き焦がそうとしていた。翔太は熱さに耐えかねて床にうずくまり、甚八は激しい喘息のような咳を繰り返しながら、壁の配管にしがみついている。
凍夜自身もまた、限界に達していた。喉の奥が冷気で硬直しているため、熱い空気を吸い込むたびに、ガラス化した肺胞が内側から悲鳴を上げる。乾いた喀血の泡が唇から溢れ、床に落ちる前に蒸発していく。着用している「健一の防寒コート」の表面が、熱によって不気味に融解し始め、鼻を突く化学繊維の焦げ臭い匂いが立ち込めた。
(このままでは、数分と持たずに全員が蒸し焼きになる……。ハルトの火花では、この高圧蒸気の熱膨張をさらに強めてしまうだけだ。吸い込むしかない、この熱を……!)
凍夜は、自身のコートの内側、胸の皮膚に直接触れている防寒用ナノファイバーインナーを掴み、その下にある機械の感触を確かめた。地表の墜落船からリンが命がけで回収し、未だ稼働テストすら行っていなかった旧時代の遺物――『熱量吸収式サーマルスーツ(プロトタイプ)』だ。
凍夜は動かない左腕を無理やり引きずり、右手をスーツの心臓部へと伸ばした。そこには、闇市で佐助から手に入れた、赤く鈍く光る『サーマル・セル(低純度)』が装填されている。セルのロックを解除し、一気に押し込んだ。ハッチが噛み合う金属音が、蒸気の轟音の隙間で鋭く響く。
その瞬間、コートの襟元に仕込まれた古い受信機から、ザーザーと激しいノイズ混じりの音声が流れ出した。それは、第二層のジャンク屋「おトメ婆さん」からの長距離暗号無線だった。
『――聞こえるかい、小僧! 勝手にスーツを起動しやがったね! 警告しておくよ、そのスーツの蓄熱回路はまだ調整不足だ。お前の心臓の結晶化レベルはすでに十パーセントを超えている! これ以上の急激な吸熱は、お前の自律神経を完全に破壊するよ! 今すぐ止めな、死にたいのかい!』
「黙っていろ、婆さん」
凍夜は冷徹な声で無線を遮った。
「ここで何もしなければ、どのみち全員が死ぬ。それに……俺は約束したんだ。誰も、凍えさせないと」
凍夜は右手を前に突き出し、テツが補強してくれた『テツ特製「氷結伝導グローブ」』の指先を限界まで開いた。スーツの胸部に埋め込まれた青い『絶対零度の神核』の紋様が、セルの高熱エネルギーと同期し、不気味に黄金色の光を帯びて明滅を始める。スーツの各部を走る超伝導パイプラインが、一瞬にして赤く脈動し始めた。
「吸熱モード……起動」
物理法則を逆転させるエントロピーの強制移動。凍夜の手のひらを中心に、目に見えない「熱の吸引孔」が展開された。甚八から授かった『熱対流操作理論』が、凍夜の脳内で完璧な数式となって具現化する。熱は温かい方から冷たい方へ移動するのではない。絶対零度の神格の前に、熱はただ「奪われる」のだ。
シュウウウッ! と、空間全体の圧力が急激に低下する音が響き渡った。通路を埋め尽くしていた摂氏二百度の過熱蒸気が、凍夜の手のひらに吸い込まれるようにして、凄まじい速度で収束していく。蒸気が持つ膨張エネルギー(熱量)が根こそぎ奪われ、水分子が一瞬にして冷却され、白い水霧へと還元されて床に降り注ぐ。
わずか数秒。通路を支配していた地獄の熱気は完全に消え去り、代わりにマイナス十度の冷たい、澄んだ空気が満ちた。
「な……何だと!?」
通路の奥で、ガスマスクを被ったガスが驚愕の声を上げ、後退した。彼が自慢する過熱蒸気トラップは、冷気で「相殺」されたのではない。蒸気そのものの熱エネルギーを、凍夜のサーマルスーツに完全に「吸い尽くされ」て無力化されたのだ。
だが、安堵の瞬間は、暗闇の奥から響いた不気味な口笛によって切り裂かれた。ガスの背後、闇に包まれた配管の隙間から、真っ赤な防寒戦闘服を纏った二人の影が、滑り出すように現れた。烈火党のボス・権藤が直属とする遊撃隊の双子――兄の朱雀(スザク)と、弟の玄武(ゲンブ)だった。
「ククク……噂の死神か。ボスの熱を脅かすネズミがいると思えば、ずいぶんと面白いオモチャを着ているじゃないか」
細身で整った顔立ちの朱雀が、不気味な笑みを浮かべながら、腰のホルダーから数十本の投擲ナイフを抜き放った。そのナイフの表面は、彼の『摩擦熱のナイフ投影』能力によって強制振動させられ、摂氏千度を超える赤熱化した光を放っている。
「死ね、死神」
朱雀が腕を振るった瞬間、音速を超える赤熱ナイフが、大気を引き裂きながら凍夜の心臓を狙って放たれた。
「凍夜、危ねえっ!」
ハルトが叫び、大破寸前の『帝国製熱線銃(ジャンク)』を朱雀に向けて放った。だが、朱雀が周囲に発生させた激しい熱風の対流によって射線が狂わされ、熱線は虚しく鉄骨を穿つだけに終わる。赤熱ナイフは凍夜の左肩をかすめ、健一の防寒コートの肩口を深く切り裂いた。ジュウ、と皮膚が焼ける音がし、凍夜の身体が衝撃でわずかに揺らぐ。
間髪入れず、巨漢の弟・玄武が前に踏み出した。彼の両腕には、表面温度が三百度の沸騰状態に達している巨大な『超伝導高熱シールド』が装着されていた。近づくだけで周囲の空気が熱膨張を起こし、ドカンと爆発的な衝撃波が発生する。
「兄ちゃんの邪魔はさせねえ! まとめて溶けちまえ!」
玄武は高熱の盾を構え、猛烈な突進でハルトの防御陣形を強引に跳ね飛ばした。ハルトは鉄骨に叩きつけられ、うめき声を上げて倒れ込む。玄武の突進速度は衰えず、そのまま凍夜の胸元へと肉迫した。三百度の盾が、凍夜の眼前に迫る。
(今、冷気を放出すれば、スーツの蓄熱限界を超える……。だが、避ければ背後の翔太たちが死ぬ。ならば――)
凍夜は奥歯を噛み締め、サーマルスーツの蓄熱インジケーターが警告の赤色に染まるのを目視した。彼は右足を踏み込み、テツの「氷結伝導グローブ」をはめた両手を前に突き出した。玄武の放つ高熱盾の衝撃を、正面から受け止めるために。
その瞬間、朱雀の指先が不気味に動き、摩擦熱で白熱化した次なる音速ナイフが、凍夜の無防備な心臓に向けて放たれた。熱と冷気が衝突し、大気が悲鳴を上げる中、死神の心臓に、紅蓮の牙が迫りつつあった。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!