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甚八の理論と蒸気配管の罠

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第18区地下シェルター「アジール」の最下層へと続く通路は、金属の死臭に満ちていた。錆びついた鉄骨から滴る結露は一瞬で氷柱へと姿を変え、足元を這う凍てついた大気はマイナス七十度の深淵へとアジールを誘っている。


「急げ、凍夜! このままだと、ドームの子供たちが全員、カチコチの氷像になっちまう!」


 先頭を走るハルトが、焦燥に駆られた声で叫んだ。彼の右手の指先は、数時間前に凍夜の肩に触れた際の軽い凍傷で白く変色していたが、それを気にする余裕など微塵もなかった。その背後を、翔太がすり減った金属製ライターを握りしめ、鼻水を凍らせながら必死に追いかけている。


 氷室凍夜は無言で、厚手の「健一の防寒コート」の襟を立てた。すでに肘の上まで完全に結晶化し、感覚を失った左腕は、重い鉄の塊のようにコートの袖の中で沈んでいる。走るたびに、ガラス化した肺胞が内壁を削り、喉の奥から熱い鉄の味がせり上がってきた。喉は冷気で硬直しており、息を吸い込むたびにヒューヒューと不気味な金属音が漏れる。


 角を曲がると、目の前に巨大なドーム状の倉庫――「孤児ドーム」の鉄扉が現れた。だが、その扉はすでに真っ白な霜に覆われ、周囲の配管からは異様な「シューシュー」という高圧の蒸気音が響いていた。


「おい、嘘だろ……!?」


 ハルトが絶句した。ドームの天井付近を走る暖房用熱水パイプのバイパスが異常に膨張し、今にも破裂しそうなほど赤黒く変色していたのだ。それだけではない。ドームの通気口からは、冷気そのものが牙を剥くように吹き出し、内部の気温はすでにマイナス四十度まで急降下していた。


 ドームの薄暗い内部では、病弱なタカシや幼いミキたち孤児が、破れた毛布を幾重にも重ねて身を寄せ合っている。天井の亀裂からは、摂氏百度を超える沸騰水がポタポタと降り注ぎ、それがマイナス四十度の極寒の大気に触れた瞬間、猛烈な霧と氷の刃となって子供たちを襲っていた。沸騰水と極低温が同時に襲う、悪魔の檻だ。


「近寄るな、ハルト! そのパイプに触れた瞬間、圧力で肉ごと吹き飛ぶぞ!」


 ドームの隅、錆びついた配管の陰から、腰の曲がった小柄な老人が這い出てきた。大きなルーペが付いたゴーグルを額にかけ、油まみれの布で手を拭いている老人――アジールの配管設計士である甚八だった。


「甚八のじいさん! なんでここに!?」

「このドームの配管を設計したのはワシじゃ! 権藤の奴ら、共同ボイラー室のバルブを無理やり過加圧しやがった。このままじゃ配管が破裂して、ドーム全体が沸騰蒸気で消し飛ぶか、暖房が完全に停止して子供たちが一瞬で凍死するかの二択じゃ!」


 甚八はゴーグルの奥の鋭い目で凍夜を睨みつけた。


「お前が噂の『冷気使い』か……。頼む、その冷気でパイプを冷やしてくれ! だが、ただ凍らせるだけじゃダメじゃ。一箇所を急激に塞げば、行き場を失った蒸気圧が別の場所で大爆発を起こす!」


 甚八は煤けた図面を床に広げ、凍夜の結晶化した左腕を指差した。


「いいか、熱対流の物理法則を応用するんじゃ。熱い蒸気は冷やされると、その体積を一瞬で約千七百分の一に急縮小させる。圧力を一気に真空近くまで引き下げるんじゃ! 第三バルブの分岐点をピンポイントで急冷し、内部の体積収縮を利用して、蒸気の流れを逆対流させろ!」


 甚八の「熱対流操作理論」――それは、無から氷を作る魔法ではなく、物理的なエントロピーの移動によって環境を制御する、極限の科学だった。凍夜の脳内に、不可視の熱エネルギーの流れが、一本の濁流として視覚化される。


(熱を奪い、圧力を殺す……)


 凍夜は、テツが補強してくれた「氷結伝導グローブ」をはめた右手を、激しく振動する高熱のパイプへと伸ばした。心臓の青い紋様が激しく脈動し、体内の冷気が右腕へと収束していく。だが、脳裏に陽菜の青白い顔が浮かび、凍夜の指先が一瞬、躊躇った。


(冷気を使えば、また陽菜の体温が奪われる……)


 しかし、目の前で震えるミキが「お兄ちゃん、寒いよ……」と小さな声を上げた。凍夜は奥歯を噛み締め、覚悟を決めた。陽菜との「誰も凍えさせない」という約束を果たすため、今、この目の前の命を救う。


「ハルト、翔太、下がれ」


 凍夜は右手をパイプの亀裂の直上に当てた。新技能、帝国式「過熱蒸気パイプライン爆破術」の応用――。彼は無駄な冷気を一切放出せず、甚八が示した第三バルブの接合部に向けて、ピンポイントで『氷結の伝伝(アイス・パス)』を走らせた。


 キィィィン、と鼓膜を刺すような金属の急冷音が響いた。鉄パイプが急激な熱収縮を起こし、赤黒い膨張がみるみるうちに青白い霜で覆われていく。パイプの内部で、摂氏百度を超える蒸気が急激に冷却され、水へと還元されると同時に体積が千七百分の一に激減した。内部圧力が一瞬で真空へと引きずり下ろされ、逆対流が発生する。沸騰水の噴出がピタリと止まり、亀裂は内側から強固な氷の栓によって完璧に封鎖された。


 ドーム内の温度低下が止まり、微かに残ったボイラーの余熱が、子供たちの凍えた頬を優しく包み込んだ。


「やった……! 冷気が、配管の圧力をコントロールしやがった!」

 ハルトが歓声を上げ、甚八は興奮でゴーグルを揺らした。

「見事じゃ! 熱を奪うことで圧力を支配する……これぞ真の熱力学じゃ!」


 だが、安堵の瞬間は、不気味な金属音によって切り裂かれた。


 ガガガ、と通路の奥から老朽化したバルブがひとりでに回転する音が響く。ドームを囲む排熱ダクトのハッチが次々と閉鎖され、周囲の暗闇が急速に狭まっていく。ハルトが熱線銃を構え、凍夜は結晶化した腕の痛みに耐えながら、暗闇を睨みつけた。


「ククク……素晴らしい冷却技術だな、死神の小僧」


 ダクトの影から姿を現したのは、全身に複数のバルブや複雑な銅製パイプが張り巡らされた奇妙な防寒着を纏った男だった。顔は大きなガスマスクで覆われ、不気味な金属音を立てて呼吸している。烈火党のボス・権藤が飼う、蒸気爆破の罠師――ガスだった。


「ボスはお前の冷気を恐れているが、俺の過熱蒸気トラップの前では、その冷気すらもただの燃料に過ぎん。アジールのネズミども、ここで蒸し焼きにしてやる!」


 ガスが腰の特殊バルブコントローラーを操作した瞬間、凍夜たちの背後にある巨大な排気口のシャッターが開き、摂氏二百度を超える過熱蒸気が、凄まじい風圧と共に通路全体に一斉に噴射された。


「うわああああっ!?」


 ハルトが『火花散布』を放って蒸気を吹き飛ばそうとしたが、高圧の蒸気風圧に押し戻され、逆に火花の熱が蒸気の膨張を強めてしまう。通路は一瞬にして、視界ゼロの沸騰する白い地獄へと変貌した。逃げ場のない狭い通路で、摂氏二百度の死線が凍夜たちを飲み込もうと迫り来る。

HẾT CHƯƠNG

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