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赤きレジスタンスと氷の盾

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凍え川の濁流は、骨の髄まで凍てつかせる暗黒の地獄だった。


 マイナス十度の汚水から這い上がった氷室凍夜(ヒムロ・トウヤ)の肉体は、すでに限界を迎えていた。左腕は肘の上まで完全に結晶化し、ガラス細工のように青白く硬化している。一歩進むたびに、肺胞に突き刺さる氷片が内壁を削り取り、喉の奥から乾いた鉄の味がせり上がってきた。呼吸をするたびに、肺から漏れる息が白い霧となって激しく散る。


「凍夜……おい、しっかりしろ!」


 リンが凍傷で紫に腫れ上がった指先で凍夜の身体を支えようとするが、彼の皮膚から立ち上る異常な冷気に触れた瞬間、悲鳴を上げて手を引いた。凍夜の体温は、生物としての生存限界を遥かに下回っている。触れるものすべての熱を、エントロピーの法則を無視して吸い尽くす絶対零度の神格――その封印が融解しかけている代償だった。


「兄ちゃん……! 死んじゃ嫌だ、兄ちゃん……っ」


 翔太(ショウタ)が火傷を負った右手を庇いながら、凍夜の濡れたコートの裾を握りしめて泣きじゃくる。だが、凍夜の耳には、その声すらも遠い氷壁の反響のようにしか聞こえなかった。頭を支配しているのは、ただ一つ。


(陽菜……)


 感覚同調のバックラッシュ。自分が冷気を使うたびに、遠く離れた診療所で盲目の少女・陽菜(ヒナ)の生命熱が奪われる。彼女の指先が霜で白く染まっていくビジョンが、脳裏に焼き付いて離れない。俺が強くなるほど、彼女が死に近づく。その絶望的な因果が、凍夜の心臓を物理的な冷気以上の激痛で締め付けていた。


 その時、暗黒の水路の天井から、バサリと太いロープが投げ下ろされた。


「おい! そこまでだ、ドブネズミども! 手を掴め!」


 上方の排熱ハッチから身を乗り出したのは、赤く染めた短い髪をくしゃくしゃに濡らした、一人の青年だった。煤けたゴーグルを首にかけ、自警団の腕章を巻いた防寒ベストを着ている。彼の手のひらからは、パチパチと微弱な赤い火花が散っていた。第18区生存者会(レジスタンス)の若きリーダー――ハルトだった。


「ハルト……?」


 リンが驚愕の声を上げる。ハルトは不敵に笑い、ロープを強く引いた。


「牙頭(ガトウ)の奴らが血相を変えて逃げていくのが見えてな。お前らが水路に落ちたって聞いて、ダクトを逆走して探してたんだ。さあ、早くしろ! 烈火党の増援が来る前にここを離れるぞ!」


 ハルトと、彼が率いる自警団の若者たちの手によって、凍夜たちは汚水まみれの縦穴から引き上げられた。極寒の風が濡れた防寒着を一瞬で凍りつかせ、凍夜の意識は急速に遠のいていった。


     *


 次に凍夜が目を覚ました時、肌を刺すような冷気は消え、微かな温風が顔を撫でていた。


 視界に入ってきたのは、錆びついた巨大な鋼鉄の配管が複雑に交差する天井だった。至る所からシューシューと蒸気が漏れ、機械の低い駆動音が絶え間なく響いている。即席の防寒シートで囲われた簡易ベッドの上に、彼は横たわっていた。


「気がついたか、凍夜」


 傍らでドラム缶のストーブに薪をくべていたハルトが、顔を向けた。ここは烈火党のパトロールが絶対に立ち入らない、レジスタンスの秘密基地――『廃熱ダクト第9分岐点』だった。アジール全体を循環する排熱ダクトの隙間に作られたこの場所は、常に機械の騒音と、生存者たちにとっては奇跡のような微温に満ちている。


「ここは……」


「俺たちの隠れ家だ。お前が着ていたナノファイバーのインナーは、サキが乾かしておいた。だが……その左腕、ひどいな」


 ハルトの視線の先、凍夜の左腕は肘の上まで完全に青い結晶に覆われ、感覚を失っていた。凍夜は無言で身体を起こそうとしたが、激しいめまいに襲われ、再びベッドに沈み込んだ。


「無理するな。お前の喉、冷気で硬直してまともに動いてねえんだ。これを飲め」


 ハルトが差し出したのは、ひび割れたマグカップに入った温かい合成スープだった。アジールでは貴重な、カロリーを多く含んだ配給品だ。凍夜はカップを受け取ろうとしたが、指先が凍りついていて力が入らない。ハルトの手からスープを一口啜ったが、喉の奥が凍りついたように収縮し、うまく飲み込めずに激しくむせ返った。


「……すまない。身体が、熱を拒絶している」


「気にするな。お前の身体は、今、冷気そのものと戦ってるんだ」


 ハルトはスープのカップをドラム缶の上に置くと、静かに凍夜を見つめた。


「お前が灰崎(ハイザキ)の腕を凍らせ、さらに牙頭の火炎犬を全滅させたって聞いた。アジールの連中はお前を『死神』だの『死を呼ぶ冷気男』だのと言って恐れてる。冷気なんて、この凍える地下世界じゃ、死そのものだからな」


 その時、防寒シートの隙間から、数人のレジスタンス構成員が不機嫌そうな顔で入ってきた。彼らは自警団「氷防衛線」の古参メンバーたちだった。


「ハルト! 本当にその『冷気使い』をここに置いておくつもりか?」


 一人の男が、凍夜を忌々しそうに指差した。


「こいつが息をするだけで、このダクトの貴重な熱が吸い取られてるんだぞ! ただでさえ権藤(ゴンドウ)のせいで配給が減ってるってのに、化け物を飼う余裕なんて俺たちにはない!」


「そうだ! 冷気はアジールを凍らせる呪いだ。灰崎を怒らせたせいで、自警団の東ゲートの警備も厳しくなった。こいつは災いしか持ってこない!」


 保守派のメンバーたちの怒号が、狭いダクト内に響き渡る。凍夜は何も言わず、ただ冷徹な瞳で彼らを見つめていた。反論する気力も、自身を弁護する理由もなかった。彼らの言う通り、自身の冷気は周囲を凍らせる。そして何より、陽菜の命を削っているのだから。


 だが、ハルトは一歩前に踏み出し、構成員たちの前に立ち塞がった。


「黙れ!」


 ハルトの声には、若いながらもレジスタンスを率いる絶対的な覚悟が宿っていた。


「お前ら、忘れたのか? もし凍夜が灰崎を倒さなければ、診療所にあった子供たちのためのカロリー・チップはすべて奪われていたんだぞ! 東ゲートが閉まったのは権藤の嫌がらせだ、凍夜のせいじゃない!」


「しかし、ハルト、冷気と俺たちの炎は相容れない――」


「相容れないかどうかは、俺が決める!」


 ハルトはそう叫ぶと、自身の右手を高く掲げた。彼の指先から、バチバチと激しい赤い火花が弾け飛ぶ。ハルトの固有能力『火花散布(スパーク・バースト)』。温度こそ低いが、確かな発火の意志を持った熱の弾丸だ。


「見てろ」


 ハルトは凍夜の結晶化した左手に向けて、その火花を放った。


 赤い火花が、凍夜の青白い氷のグローブに衝突する。一瞬、鋭い蒸発音が響き、赤と青の光が交差した。だが、爆発は起きなかった。ハルトの火花の熱は、凍夜のグローブに吸い込まれるようにして消え去り、引き換えに、二人の手の境界から、ほんの僅かな温かい水蒸気が立ち上ったのだ。


「……熱と冷気は、殺し合うためだけにあるんじゃない」


 ハルトは息を荒くしながら、構成員たちを見回した。


「コントロールさえできれば、こいつの冷気は、俺たちの命を繋ぐための『盾』になる。権藤の炎から、アジールの住民を守るための絶対的な壁だ。俺はこいつを信じる。文句がある奴は、俺を倒してからにしろ」


 リーダーの圧倒的な気迫に、保守派の構成員たちは言葉を失い、不満げに顔を背けてダクトの奥へと去っていった。レジスタンス内部に、凍夜を巡る一時的な亀裂が生じたことは明らかだったが、ハルトの論理的な反論が、辛うじてその場を収めていた。


「……お節介な男だな」


 凍夜がかすれた声で呟いた。


「俺は化け物だ。お前たちの熱を吸い尽くすかもしれない」


「その時は、俺の火花でお前を温め直してやるよ」


 ハルトは笑い、凍夜の肩を叩こうと手を伸ばした。だが、ハルトの指先が凍夜の肩のコートに触れた瞬間――チリ、と凍てつくような衝撃が走り、ハルトは「うわっ」と声を上げて手を引っ込めた。彼の指先は、一瞬にして軽い凍傷にかかり、白く変色していた。


「……悪い。やっぱり、物理的な接触はまだ無理みたいだな」


 ハルトは苦笑しながら、凍傷の指先を息で温めた。物理的な接触の限界。どれだけ心が通じ合おうとも、凍夜の肉体が放つ絶対零度の深淵は、他者の温もりを拒絶する。その厳然たる事実が、二人の間に冷たい境界線を引いていた。


 ハルトは表情を引き締め、ドラム缶のストーブの前に腰掛けた。


「凍夜。単刀直入に言う。俺たちに力を貸してくれ」


「……なぜ俺だ」


「炭鉱区『黒い穴』に、俺の父親と、レジスタンスの家族たちが囚われているんだ」


 ハルトの瞳の奥に、激しい怒りと悲痛な光が宿った。


「権藤の野郎、ボイラーの石炭を採掘させるために、俺たちの家族を奴隷として強制労働させてやがる。あそこを支配している看守長・剛田(ゴウダ)は、体温を奪う沸騰泥を操る容赦ない奴だ。自警団の貧弱な熱線銃じゃ、あそこの防衛網を突破できない。だが、お前の冷気があれば、剛田の熱泥を凍らせて無力化できるはずだ」


 炭鉱区『黒い穴』。アジールの最下層に位置する、最も危険で過酷なエリア。そこを解放すれば、アジールの住民たちに「最初の火種」を取り戻すことができる。だが、凍夜にとって、それは自らの肉体の結晶化をさらに進行させる死へのカウントダウンに他ならなかった。


 凍夜は無言で、ストーブの微弱な火を見つめた。自身の命を削り、さらに陽菜を凍らせてまで、戦う意味がどこにあるのか。


 その時、ダクトの暗闇から、一人の老兵が姿を現した。自警団の古参兵であり、隻腕の戦士として恐れられるバズだった。顔に刻まれた大きな傷跡が、ストーブの赤い光に照らされて不気味に浮かび上がる。


「小僧」


 バズは不敵な笑みを浮かべ、凍夜の結晶化した左腕を睨みつけた。


「お前の冷気の威力は認めてやる。だが、お前の格闘術はゴミ以下だ。無駄な冷気を垂れ流し、己の体温をドブに捨てている。そんな甘い戦い方じゃ、剛田の熱泥に触れる前に、自分の冷気で内臓から凍りついて死ぬぞ」


 バズは腰からタングステン製の軍用ナイフを抜くと、その刃先を凍夜の喉元に突きつけた。


「生き残りたければ、限られた体温(スタミナ)で最大の殺傷力を発揮する『急所必殺術』を俺が叩き込んでやる。冷気は武器だ。だが、それを振るう肉体が未熟なら、ただの自爆装置に過ぎん」


 老兵の冷酷な、しかし真実を突いた言葉が、凍夜の胸に突き刺さる。冷気だけに頼らない物理的な必殺術。それは、凍夜のエネルギー消費を抑え、陽菜へのバックラッシュを最小限に抑えるための、唯一の生存の知恵だった。


「……分かった。お前の技術を貰う」


 凍夜は静かに答え、ハルトを見つめた。


「ハルト。俺が力を貸す理由は、アジールのためじゃない。陽菜をこれ以上凍えさせないため、そして、あの診療所に帰るためだ。そのためなら、剛田でも権藤でも、すべてを凍らせてやる」


「十分だ」


 ハルトは力強く頷き、凍夜に向けて右手を突き出した。触れ合うことはできなくとも、二人の魂は確かに、同じ生存の意志の下で交わされていた。赤きレジスタンスの情熱と、すべてを拒絶する氷の盾。相反する二つの力が、地底の暗闇で一つのバディとして産声を上げた瞬間だった。


 共闘の決意が固まり、作戦を練ろうとしたその時だった。


 ダクトのハッチが、凄まじい勢いで叩き開けられた。


「ハルト兄ちゃん! 大変だ!」


 息を切らし、顔を真っ青に染めた翔太が、ダクト内に飛び込んできた。彼の小さな身体は激しく震え、その目には涙が溢れていた。


「どうした、翔太!?」


 ハルトが叫び、翔太の肩を掴んだ。


「権藤の奴ら、診療所への嫌がらせとして……孤児たちが身を寄せる『孤児ドーム』の暖房配管に細工をしやがった! 配管のバルブが異常過圧されて、今にも破裂しそうなんだ! ドームの中はすでにマイナス四十度まで下がって、タカシやミキたちが、みんな凍え死にそうなんだよ!」


「何だと……!?」


 ハルトの顔から血の気が引いた。権藤の卑劣な報復。罪なき子供たちの命を人質に取り、凍夜を誘い出すための罠であることは明白だった。


 凍夜は静かに立ち上がった。彼の結晶化した左腕が、怒りに呼応するように青く不気味に発光する。ストーブの火が、一瞬にして不自然に縮こまり、ダクト内の温度が急激に低下し始めた。


「行くぞ、ハルト」


 凍夜の声は、すでに人間のものではなかった。地底の深淵から響く、絶対零度の絶対神の宣告だった。子供たちの温もりを奪う炎の支配者たちを、今度こそ完全に凍てつかせるための、冷酷な戦いが再び始まろうとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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