熱感知の猟犬と地下水路の追跡
十数条の真っ赤な熱線が、闇市「ブラック・スチーム」の湿った空気を焼き焦がしながら、一斉に氷室凍夜(ヒムロ・トウヤ)へと照準を合わせた。二階のテラスから死の商人・黒金(クロガネ)が放った「殺せ」という冷酷な号令が、錆びた排熱パイプの騒音に混ざって響き渡る。
「動くな、死神! その化け物じみた腕ごと、蒸発させてやる!」
私兵たちの引き金に指がかかる。一瞬の猶予もない。凍夜は感情の消えかけた瞳で周囲の熱源を網膜に焼き付け、即座に思考を巡らせた。まともに熱線を受ければ、佐助から手に入れたばかりの「防寒用ナノファイバー繊維」のインナーごと肉体が炭化する。だが、この包囲網を突破するための「熱」は、すでに敵自身が供給してくれている。
凍夜は心臓の青い紋様を脈動させ、全身の体温を周囲のマイナス十度の環境と強制的に同期させる隠密技能――『熱量隠蔽(サーマル・ステルス)』を最大出力で起動した。
その瞬間、周囲の空気から急激に熱が奪われた。闇市の高い湿度と沸騰する排水の熱気が、凍夜の放つ極低温によって一瞬で急冷され、爆発的な結露となって立ち上る。視界を完全に遮る、濃厚な白い霜の霧。私兵たちの熱線銃に搭載された赤外線センサーが、目標の体温(熱源)を見失って狂ったように警告音を鳴らし始めた。
「なっ、消えた!? サーモグラフィに何も映らん!」
「霧だ! クソ、適当に撃て!」
霧の向こうで閃光が走り、熱線が虚空を貫く。その混乱の隙に、凍夜は群衆の陰に身を潜めていたリンの襟首を掴み、背後に立ち尽くしていた翔太の背中を強く押した。
「走れ。排水溝へ飛び込む」
「えっ、でも――」
「四の五の言うな、翔太! 死にたいのかい!」
リンが叫び、足元の錆びた鉄格子を力任せに引き剥がした。その下に広がるのは、アジールの最下層を流れる暗黒の深淵――地下水路「凍え川」だった。凍夜は躊躇うことなく、冷え切った身体を暗闇の底へと投げ落とした。それに続いて、リンと翔太もまた、汚濁に満ちた水音を立てて縦穴へと消えていった。
頭上から私兵たちの罵声と無駄な熱線の銃撃が響くが、それらはすぐに、地下水路を流れる産業排水の激しい轟音にかき消された。
水温はマイナス十度。通常の水であれば完全に凍結しているはずの温度だが、この「凍え川」は中層都市や炭鉱区から流れ出る高濃度の化学塩分、重金属、そして産業廃棄物の不純物が混ざり合っているため、凝固点降下によって凍ることなく、どろりとした液体として流れ続けている。
ドボン、と汚水から顔を上げた凍夜は、全身を襲う凄まじい寒気に歯をガチガチと鳴らした。ナノファイバーインナーが辛うじて体幹の熱を閉じ込めているが、水流による「対流熱伝達」は空気の数十倍の速さで凍夜の生命力を奪っていく。すでに肘まで結晶化して感覚のない左腕が、凍りついた鉄の塊のように重く沈もうとしていた。
「冷た……っ、何これ、骨まで凍りそう……!」
リンが水路の不気味なコンクリート壁にしがみつきながら、紫色の唇を震わせる。翔太は火傷を負った右手を庇いながら、凍夜のコートの裾を必死に掴んでいた。
「兄ちゃん、どこに行くの……? 真っ暗で何も見えないよ……っ」
水路の内部は、光が一切届かない完全な暗黒だった。壁にへばりつく錆びた配管の振動だけが、不気味に響いている。凍夜は『熱量隠蔽』を維持しようとしたが、極低温の汚水に体温を奪われ続け、心臓の結晶化が激しく進行していくのを感じた。肺が軋み、喉の奥から乾いた喀血の泡が漏れ出る。
その時、水路の遥か前方から、暗闇を切り裂くような「赤い光」がいくつか近づいてくるのが見えた。
バシャ、バシャ、と規則正しい水音が響く。それは、人間の足音ではない。もっと低く、獣の這うような足音――そして、水面を照らす赤い光の正体は、生物の鼻先が熱センサーのように赤く発光しているビジョンだった。遺伝子操作によって熱感知能力を極限まで高められた烈火党の猟犬、「火炎犬」の群れだ。
「ハハハ! ドブネズミどもめ、こんな冷たいドブ川に逃げ込むとはな!」
暗闇の奥から、松明の炎を掲げた大男が姿を現した。獣の皮を何重にも纏い、顔に醜い火傷の痕が走る男――権藤が放った追跡のプロ、牙頭(ガトウ)だった。彼の腰には、熱振動を帯びた不気味な鞭が巻かれている。
「無駄だぞ、死神! この『凍え川』に潜ろうが、俺の可愛い猟犬どもの鼻からは逃れられん! お前たちの体温は、この冷たい水の中じゃ、闇夜の松明のようにくっきりと浮き上がっているんだよ!」
牙頭が鋭い口笛を吹くと、三頭の火炎犬が牙を剥き、水しぶきを上げて突撃してきた。犬たちの喉元からは、水を一瞬で沸騰させるほどの高熱のブレスが漏れ出ている。
凍夜は息を止め、水中に身体を沈めて『熱量隠蔽』で体温を水温と同調させようとした。だが、対流する水流が常に体表の温度を乱すため、完全に気配を消すことができない。猟犬たちの熱センサーが、凍夜のわずかな残留熱を正確にロックオンした。
絶体絶命だった。冷気を使えば、自身の肉体がさらに凍りつく。使わなければ、火炎犬の灼熱の牙に肉を裂かれ、蒸発させられる。
その時、凍夜の凍りつきかけた脳裏に、一本の「見えない熱の導線」が滑り込んできた。
(――凍夜さん。そこにいるのですね)
頭の中に直接響いたのは、新川診療所に残してきたはずの盲目の少女、陽菜(ヒナ)の静かな声だった。
手を握り合わなければ起動しないはずの『感覚同調・熱源共有』が、凍夜の心臓に宿る「先代神のコア」と、陽菜の持つ特殊な脳波の異常共鳴によって、距離を超えてワイヤレスで接続されたのだ。
次の瞬間、凍夜の完全な暗闇だった視界が、一変した。
泥水に遮られていた視界が、極彩色の熱量ビジョン(サーマル・ビジョン)へと書き換わる。汚濁した冷たい排水は深い青色に、コンクリートの壁は冷徹な灰色に。そして、迫り来る三頭の火炎犬の体内を流れる灼熱の血液が、鮮烈なオレンジ色と赤色の波となって、壁の裏側までミリ単位で完璧に可視化された。牙頭の持つ鞭の熱振動、彼の心臓の鼓動までが、暗闇の中にくっきりと浮かび上がっている。
(見える……。熱の流れが、すべて)
陽菜の研ぎ澄まされた超感覚が、凍夜の戦闘脳と完全に同期した。凍夜は水中で目を見開き、テツ特製の「氷結伝導グローブ」をはめた右手を、どろりとした水面へと突き立てた。
「氷結の伝導(アイス・パス)」
凍夜が心臓の封印から冷気エネルギーを解き放ち、水中に直接流し込んだ。不純物が多く凍りにくい「凍え川」の性質を、彼は極限の戦闘ロジックで逆利用した。水全体が即座に凍りつかないからこそ、冷気のエネルギーは水流という伝導媒体を伝って、減衰することなく「一本の線」として、高速で猟犬たちの足元へと走り抜ける。
ピキピキピキ! と水面に青白い氷の亀裂が走り、突撃してきていた火炎犬たちの足元に到達した。
その瞬間、水に触れていた犬たちの四肢から、すべての熱量が一瞬にして吸い尽くされた。体内のマグマが急激に冷却され、黒い硬質な岩石(結晶)へと変化していく。犬たちは悲鳴を上げる間もなく、水面に触れた部分からカチコチに凍りつき、ただの重い石像となって水底へと沈んでいった。
「な、何だと!? 俺の火炎犬が一瞬で……!」
牙頭が驚愕に目を見開いた。彼は信じられないものを見る目で、水面から音もなく立ち上がる凍夜の姿を凝視した。凍夜の全身からは、水を蒸発させるほどの冷たい霧が立ち上り、その瞳は冷徹な氷晶の青へと染まっていた。
牙頭の群れのリーダーであり、最も獰猛な黒い猟犬「クロ」が、凍夜の前に進み出ようとした。だが、クロの鼻先が赤く発光した瞬間、その巨体が激しく震えだした。クロの動物的な本能が、凍夜の心臓の奥底に眠る、すべてを無(絶対零度)に帰す「先代の冷気の神」の圧倒的な神格オーラを検知したのだ。
クロは牙を剥く代わりに、哀しげな悲鳴(クーン)を上げて耳を伏せ、牙頭の背後へと逃げ惑った。神への絶対的な畏怖が、調教の鎖を本能的に引きちぎったのだ。
「おい、クロ! 何をしている、敵は目の前だぞ! 撃て!」
牙頭が激昂して鞭を振り回したが、クロは震えるだけで二度と凍夜に牙を向けようとはしなかった。退路を失った牙頭は、凍夜の放つ圧倒的な寒気に身をすくめ、後退りしながら叫んだ。
「化け物め……! 権藤ボスがお前を絶対に許さんぞ!」
牙頭はクロの首輪を掴むと、水路の暗闇の奥へと這うようにして逃げ去っていった。その背中を追うだけの体力は、今の凍夜には残されていなかった。
静寂が戻った水路で、凍夜は激しく咳き込み、水面に黒い血を吐き出した。肺の一部がガラス状に結晶化し、呼吸をするたびに胸が引き裂かれるような痛みが走る。感覚を失った左腕は、すでに肘の上まで青白い霜に覆われていた。
だが、それ以上の激痛が、彼の精神を襲った。
「……陽菜?」
頭の中に繋がっていた温かい導線が、ぷつりと途切れた。それと同時に、胸の奥の共鳴回路を通じて、陽菜の生命熱が凄まじい速度で奪われていく感覚が伝わってきた。
遠隔での感覚同調。その代償(バックラッシュ)は、凍夜が冷気を使用するたびに、遠く離れた診療所にいる陽菜の体温を直接吸い上げるという、残酷な呪いの発動だった。
「おい、凍夜! しっかりしろ!」
リンが凍夜の身体を支えようとしたが、彼の身体から放たれる異常な冷気に触れた瞬間、リンの指先が一瞬で凍傷にかかりそうになり、思わず手を引いた。
凍夜は凍りついた左腕を抱え、暗闇の水路の先を見つめた。脳裏に浮かぶのは、今この瞬間も、自分の力のせいで指先を霜で白く染め、凍え口を震わせているであろう陽菜の姿だった。
自分が強くなるほど、彼女が死に近づく。その残酷な真実が、氷獄の暗闇の中で、静かに牙を剥いていた。
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