闇市の掟と熱の取引
第十八区(アジール)の動脈とも言える超巨大な排熱パイプ。その周囲にへばりつくようにして形成された地下闇市場、通称「ブラック・スチーム」は、煤煙と人間の脂ぎった熱気に満ちていた。
頭上を走る太いパイプの継ぎ目からは、時折「プシュー」と汚れた温水蒸気が吹き出し、凍てついた岩肌に結露となって滴り落ちる。周囲の気温はマイナス十度前後。アジールの外縁部に比べれば天国のような暖かさだが、それは同時に、ここに集まる人間たちが「熱」という絶対的な通貨に生殺与奪を握られていることを意味していた。
通路の両脇には、錆びたドラム缶で石炭のクズを燃やす露店がひしめき、無熱民たちが青く光る「カロリー・チップ」を握りしめて、わずかな合成食料や防寒用のボロ布を貪るように買い求めている。チップを数える商人の目は卑屈で、常に周囲の暴力を警戒するように泳いでいた。
「……いつ来ても最悪の空気だね」
獣皮の防寒フードを目深に被ったリンが、背負った大きなリュックを揺らしながら呟いた。彼女の隣を歩く氷室凍夜は、健一の形見である厚手の防寒コートに身を包み、周囲の喧騒を無言で見下ろしていた。彼の左腕は、コートの袖の中で肘まで完全に結晶化し、冷たいガラスのようになって感覚を失っている。さらに数時間前、スクラップ・ヒープで熔岩ラットの熱を無理やり吸い込んだ代償として、彼の肺胞は微細な熱ショックに軋み、呼吸をするたびに喉の奥に鉄の味が広がっていた。
二人の一歩後ろを歩く翔太は、リンに施してもらった応急処置の金属プレートを右手に当て、痛みに顔をしかめながらも、凍夜の背中を必死に追いかけていた。彼のリュックの中には、先ほどスクラップ山から命がけで回収した「蒸気圧バルブの残骸」が重い音を立てて収まっている。
「おい、あそこだよ。佐助(サスケ)の店だ」
リンが指し示した先には、何重にも重ね着した派手な色の防寒着を纏い、電子そろばんのような計算機をせわしなく叩いている男がいた。闇の密売人、佐助。彼は中層都市「カルデラプラント」と下層アジールを行き来し、独自の流通網を持つ抜け目のない商人だった。
「おや、リンじゃないか。それに……そっちの冷え切ったお兄さんは、今アジールを騒がせている『死神』だね?」
佐助は細い目をさらに細め、凍夜のコートから漏れ出る不自然な冷気と、彼の唇に付着した乾いた血の跡を鋭く見抜いた。彼が、烈火党の徴収官・灰崎の腕を凍らせて敗走させた張本人であることは、すでに裏社会の噂になっていた。
「挨拶はいいよ、サスケ。これを見てよ」
リンが翔太のリュックから、チタン合金製の重厚なバルブの残骸を取り出し、カウンターに置いた。金属が鈍い音を立てる。佐助は目を輝かせ、虫眼鏡を取り出してバルブの接合部を舐めるように観察した。
「ほう……! 旧時代の超硬質耐熱チタン合金だ。摩耗も少ない。テツの頑固親父が泣いて喜ぶ一級品だね。カロリー・チップで五十枚、いや、六十枚は硬いよ」
「チップはいらない」
凍夜がかすれた、しかし地底の氷を思わせる声で遮った。
「俺が欲しいのは、お前が持っている『防寒用ナノファイバー繊維』だ」
佐助の手がピタリと止まった。彼はそろばんを置き、凍夜をじっと見つめた。
「防寒用ナノファイバー繊維……帝国の軍服に使われる超高性能繊維だね。外部の冷気を完全に遮断し、着用者の体温を内部に百度閉じ込める。だがね、お兄さん。あれは非売品だ。中層の検問を抜けるだけでも命がけなんだよ。このバルブ一つじゃ、到底足りないね」
「足りない分は、出世払いだ」
凍夜は一歩前に踏み込み、佐助の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥には、感情を排した絶対零度の深淵が広がっている。
「俺が近いうちに、烈火党のボス・権藤を排除する。そうなれば、このアジールの熱量支配体制は崩壊し、お前の商売権は十倍に広がるはずだ。その未来への『投資』として、今あの繊維を俺に渡せ」
佐助は息を呑んだ。目の前にいる青年は、狂気ではなく、極めて冷静な計算の上で「ボスの排除」を口にしている。そして、その肉体から放たれる冷気は、それが不可能ではないと思わせるに十分な威圧感を持っていた。
「……クク、ハハハ! 面白い。気に入ったよ、お兄さん」
佐助は肩を揺らして笑うと、カウンターの奥から、青白い光沢を放つ極薄のナノファイバーインナーを取り出した。触れるだけで、周囲の熱を一切逃がさない特殊な質感が伝わってくる。
「これは投資だ。だが、約束を忘れないでおくれよ? 権藤の要塞から奪った略奪物資は、すべて私の流通網に最優先で流してもらう。もし裏切れば、このアジールにお前たちの居場所はなくなるからね」
凍夜は無言でインナーを受け取り、コートの下の、すでに軋み始めている胸元へと滑り込ませた。特殊繊維が皮膚に触れた瞬間、体温の外部放射が完全に遮断され、心臓の結晶化による激痛がわずかに和らぐのを感じた。
だが、その安息の時間は、闇市場の広場から響き渡った悲鳴によって、唐突に引き裂かれた。
「ぎゃあぁぁっ! 許してくれ、頼む! 子供が、子供が凍え死にそうなんだ!」
暴力的な足音と、金属の擦れる音が「ブラック・スチーム」の喧騒を一瞬で静まり返らせた。群衆がクモの子を散らすように割れ、広場の中央に、数人の武装した私兵が引きずり出してきた一人の男の姿が現れた。男はボロボロの防寒着を着た無熱民で、地面の冷たい泥に顔を擦り付けながら泣き叫んでいた。
「黙れ、ドブネズミが!」
私兵の隊長が、男の背中を容赦なく踏みつけた。鈍い骨折音が響く。隊長の手には、銃身から不気味な陽炎を立ち上がらせている特注の「高熱散弾銃(サーマル・デストロイヤー)」が握られていた。
「共同配管のバイパスから、無断で熱水を直接盗み出したな? 言い訳は無用だ」
隊長はデータパッドを掲げ、闇市全体に響き渡る声で叫んだ。
「アジール鉄則『熱の無断窃盗は死』! この世界の熱量はすべて、権藤ボスと、我らを支配する黒金(クロガネ)様のものだ! 熱を盗む者は、アジール全体の生存を脅かす大罪人として、その場で処刑する!」
広場を囲む二階のテラスから、一人の大男が冷酷な目で見下ろしていた。金糸で刺繍された豪華な毛皮コートを羽織り、指にいくつもの金の指輪をはめた男――闇市場の支配者、黒金だった。彼は手に持った温かい合成スープを悠々と啜りながら、処刑の様子を退屈そうに眺めている。彼らにとって、無熱民の命など、消費される石炭の一粒ほどの価値もなかった。
「お願いです! 熱水をほんの数リットル分、バケツに分けただけなんです! そうしなければ、あの子の凍傷が――」
男の妻が、幼い子供を抱きかかえながら、私兵たちの足元にすがりついた。だが、隊長は冷酷にその手を蹴り払い、高熱散弾銃の真っ赤に熱せられた銃口を、男の頭部に突きつけた。銃口から放たれる熱気が、男の髪を焦がし、不気味な煙を立ち上がらせる。
「熱を盗んだ対価は、お前の命で支払ってもらう」
隊長が冷酷に引き金に指をかけた。
群衆は誰もが目を背け、嵐が過ぎ去るのを待つように身を縮めた。リンもまた、凍夜のコートの袖を強く引き、首を横に振った。
「……関わっちゃダメだよ、凍夜。あいつらは黒金の精鋭だ。ここで騒ぎを起こせば、アジール中の私兵が押し寄せてくる」
だが、凍夜の脳裏には、新川診療所で自分の手を握り、「少しだけ、暖かくなりましたね」と笑った盲目の少女、陽菜の面影が去来していた。
誰も、凍えさせない。
それは、感情を失いつつある冷気の神が、一人の人間として交わした、唯一の静かなる約束だった。
凍夜はリンの手を静かに振り払うと、群衆を掻き分けて、一歩、また一歩と前進した。彼の歩みに従い、足元の泥水が「ピキピキ」と音を立てて白く凍りついていく。
「おい、誰だてめえは――」
私兵の一人が気づき、声を荒らげた瞬間、凍夜の身体はすでに隊長の眼前に達していた。
無言のまま、凍夜は右手を伸ばした。テツが鍛え上げた「氷結伝導グローブ」をはめた手のひらが、隊長が構える高熱散弾銃の、真っ赤に熱せられた銃身を直接、ガシリと掴み取った。
「あぁ!? てめえ、死にてえのか!」
隊長は狂暴な笑みを浮かべ、そのまま引き金を引いた。
ドン、と不発の鈍い金属音が響いた。弾丸は発射されなかった。
「なに……っ!?」
隊長が驚愕に目を見開いた。散弾銃の内部で、火薬が燃焼する際の初期熱量(エネルギー)が、凍夜のグローブを通じて一瞬にして「吸引」されたのだ。熱力学第一法則の逆転。爆発に必要な熱運動エネルギーを根こそぎ奪われた火薬は、化学反応を起こすことができず、銃身の内部で異常な熱収縮を起こして完全に固着していた。
銃身の赤熱化していた光が一瞬で消え去り、代わりに青白い霜が、凍夜の手元から銃全体へと凄まじい速度で這い回り始めた。
「接触凍結(タッチ・フリーズ)」
凍夜が静かに呟いた瞬間、極限の冷気が散弾銃の金属分子を凍らせ、さらにそれを握る隊長の両腕へと容赦なく伝播していった。皮手袋が凍りつき、その下の皮膚が白く結晶化していく。肉体の熱を奪われた隊長は、悲鳴を上げる暇もなく、両腕がカチコチの氷塊へと変貌していく恐怖に顔を引きつらせた。
「ひ、ぎぃあぁぁっ! 腕が、俺の腕がぁっ!」
隊長は銃を手放し、凍りついた両腕を抱えて地面を転げ回った。熱を失った散弾銃は、地面に落ちた衝撃で、ガラスのように脆く硬化して粉々に砕け散った。
静寂が、闇市全体を支配した。
「お前ら、何をしている! そいつを殺せ!」
テラスの上から、黒金が合成スープの器を投げ捨て、激昂した声を張り上げた。その命令と同時に、周囲を取り囲んでいた十数人の私兵たちが、一斉に高熱の「熱線銃」を抜き、その真っ赤に輝く銃口を凍夜に向けて固定した。
マイナス七十度の深淵から現れた死神の周囲を、すべてを焼き尽くす高熱の射線が完璧に包囲していた。
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