氷結の墓場とスカベンジャーの少女
第十八区(アジール)の北側に位置する廃棄物処理場「スクラップ・ヒープ」は、地底の暗黒へと口を開けた鉄の墓標群だった。
地上から廃棄された巨大な機械の残骸や、中層都市から滑り落ちてきた金属ゴミが数十年にわたって堆積し、凍てついた巨大な谷を形成している。気温はマイナス七十度。肺に吸い込む空気は、それ自体が微細なガラスの刃となって喉の粘膜を削り取るようだった。吐き出す息は一瞬で白い霧から硬質な霜へと姿を変え、健一の防寒コートの襟元を白く縁取っていく。
凍夜は、感覚を完全に失った左腕をコートの内側に隠すようにして歩いていた。肘から先は完全に結晶化し、硬質な氷の彫刻と化している。指先を動かそうとしても、関節の奥で凍りついた細胞が軋む不快な感覚が脳を刺激するだけだった。一歩進むたびに、胸の奥――心臓の真上にある青い紋様が、冷たい拒絶の脈動を繰り返していた。
「待って、凍夜兄ちゃん……っ!」
背後から、凍てついた金属が擦れ合う音に混じって、小さな、しかし必死な声が響いた。凍夜が足を止め、振り返ると、そこには大きな防寒帽を頭が揺れるほど深く被った少年が立っていた。煤汚れた顔から鼻水を垂らし、肩を激しく上下させているのは、診療所の孤児である翔太だった。
「なぜついてきた、翔太。診療所に残れと言ったはずだ」
凍夜の声は、周囲の極寒の空気と同調したように冷たかった。だが、翔太は大きな防寒帽の裾を乱暴に拭うと、凍夜のコートの裾を小さな手で強く掴んだ。
「嫌だ! じいちゃんから聞いたよ、凍夜兄ちゃんが自分から囮になって診療所を出て行ったって! そんなの、絶対に許さない! それに……このスクラップ・ヒープは俺の遊び場だ。どこが崩れやすくて、どこに隠れた熱水の噴出孔があるか、俺が一番よく知ってる。片腕が動かない兄ちゃんを、一人で行かせられるかよ!」
翔太の瞳には、恐怖を押し殺した強い光が宿っていた。凍夜を「冷たい化け物」と恐れるアジールの大人たちとは違い、この少年だけは凍夜を「最高にクールなヒーロー」として盲信している。その純粋な憧れが、凍夜の凍てついた胸の奥を微かに疼かせた。
「……足手まといになるな。崩落の兆候があれば、すぐに引き返せ」
「うん! 約束する!」
翔太は嬉しそうに煤けた顔を綻ばせ、すり減った金属製ライターをポケットから取り出して握りしめた。凍夜のためにいつでも火種を提供できるよう、彼なりに準備をしてきたのだ。
二人は慎重に、スクラップ・ヒープの急斜面を下り始めた。周囲は錆びついた鉄骨や、旧時代の巨大な蒸気タービンの残骸が怪獣の骨のように乱立している。凍てついた結露が金属の表面を氷の鎧で覆い、足元は極めて滑りやすい。凍夜は動かない左腕のバランスを補うように、右足を慎重に進めた。
「兄ちゃん、見て。あそこに落ちてるの、使えそうな『蒸気圧バルブの残骸』じゃないか?」
翔太が指し示した先、崩れかけた配管の隙間に、耐熱チタン合金製のバルブが半分雪に埋もれていた。アジールの職人テツなら、あの特殊合金から頑丈な防具や、凍夜の冷気を伝導するための道具を作り出せるはずだ。
凍夜がバルブに近づこうとした、その瞬間だった。
ジジ、と不気味な音が、周囲の氷壁から響いた。凍てついていたはずの鉄パイプの表面から、結露が急激に溶けて滴り落ち始める。周囲の空気が、不自然に温まり、硫黄と沸騰した油の混ざった嫌な臭いが立ち込めた。
「熱い……? 兄ちゃん、急に温度が上がって――」
翔太の言葉が終わる前に、スクラップの暗い隙間から、赤黒く発光する無数の瞳が浮かび上がった。
ギギギ、と金属を爪で引っ掻くような甲高い鳴き声と共に姿を現したのは、体長一メートルを超える巨大なネズミの群れだった。その皮膚は冷却された溶岩のように黒くひび割れ、その裂け目からは黄金色のマグマのような熱液が不気味に脈打っている。地熱をエネルギー源とする変異生物「熔岩ラット」の群れだった。
「熔岩ラットだ! なんでこんな浅い場所に……!」
翔太が悲鳴を上げた。ラットの口元からは、周囲の氷を一瞬で水蒸気に変えるほどの高熱の唾液が滴り落ちている。群れは凍夜たちの「生命の熱」を感知し、飢えた獣の目で包囲網を狭めてきた。
一匹のラットが、高熱の唾液を吐き散らしながら翔太めがけて飛びかかった。
「こ、この……悪魔め!」
翔太は恐怖に顔を引きつらせながらも、足元に落ちていた錆びた鉄パイプを拾い上げ、渾身の力でラットを叩き伏せようとした。しかし、鉄パイプがラットの赤熱した体表に接触した瞬間、凄まじい熱伝導が発生した。
ジュウウゥッ!
「あ、熱いっ……!?」
鉄パイプは一瞬にしてチェリーレッドに赤熱化し、熱が翔太の手元へと駆け上がった。翔太は手のひらを激しく火傷し、悲鳴を上げてパイプを放り出した。その皮膚は赤く焼けただれ、煙が立ち上っている。
「翔太!」
凍夜が前に出ようとした。しかし、ラットたちが発する異常な熱気により、周囲の凍りついて脆くなっていた金属ゴミが急激な熱膨張を起こした。ピシ、ピシ、と嫌な音が響き、凍夜が踏みしめていた鉄板の足場が、熱ショックによる脆化で一気に崩壊した。
「くっ……!」
足場を失い、凍夜の身体が大きく傾く。その隙を逃さず、別の巨大なラットが、喉元を噛みちぎろうと空中へ跳躍した。迫り来るのは、摂氏三百度を超える高熱の牙。片腕が動かない凍夜には、回避する術がなかった。
その時、鋭い風を切り裂く音が暗闇に響いた。
シュッ――ドン!
銅線を巻き付けた特殊なボルトが、跳躍したラットの脇腹に正確に突き刺さった。ボルトは着弾と同時に激しい火花を散らし、ラットは悲鳴を上げて地面を転がった。
「おい、そこのデカブツ! ぼさっと突っ立ってんじゃないよ!」
スクラップの巨大なタービンプレートの上から、一人の少女が軽やかに飛び降りてきた。引き締まった体躯に獣皮を組み合わせたカモフラージュ防寒着、顔半分を覆う厚手のゴーグル、背中には巨大な物資回収用リュックを背負っている。地表のスペシャリストであり、スカベンジャーの少女――リンだった。
リンは手にしたクロスボウに素早く次のボルトを装填しながら、凍夜に向かって鋭く叫んだ。
「そいつらは体内にマグマを飼ってる! 無駄に外側を攻撃しても無駄だよ! 空気の揺らぎを見な! 熱が一番歪んでる場所――心臓の熱源の中心を狙い撃ちな!」
リンの言葉に、凍夜の脳細胞が火花を散らした。空気の揺らぎ。極低温の環境下において、ラットの熱が周囲の空気を陽炎のように歪めている。その歪みの最も激しい中心点――そこが、奴らの心臓だ。スカベンジャー秘伝の「温度勾配探索法」が、凍夜に不可視の熱源の位置を完璧に指し示した。
「翔太、下がっていろ」
凍夜は無言で一歩踏み出した。襲いかかるラットの突進に対し、彼は回避することを選ばなかった。右手を前に突き出し、手のひらの「エントロピーの吸引孔」を開放する。これまでは無意識に暴走させていた冷気能力を、今回は明確な意志の力で制御しようと試みた。
熱力学第一法則の逆転法。
ラットが放つ激しい熱放射、その運動エネルギーそのものを、凍夜は手のひらから直接「吸入」した。熱を失ったラットの周囲の空気が一瞬でマイナス百度以下へと急降下し、大気中の水分が爆発的に凝固する。
ピキキキキッ!
凄まじい氷結の音が響き、ラットの足元が地面の金属スクラップごと瞬時に氷結し、その動きを完全に封じ込めた。ラットは自らの熱を奪われ、恐怖に身を震わせる。
「これで……終わりだ」
凍夜は凍りついたラットの頭部を右腕で直接掴み取った。接触凍結(タッチ・フリーズ)。
ラットの心臓部に残る、沸騰したマグマ熱を、凍夜は自身の胸の「先代神のコア」へと直接引きずり出した。ドクン、と凍夜の心臓が激しく脈打つ。赤黒い高熱のエネルギーが彼の腕を伝わり、胸の紋様へと吸い込まれていく。
次の瞬間、熱を根こそぎ奪われたラットの身体から赤黒い光が完全に消失した。皮膚は灰白色の脆い氷塊へと変貌し、凍夜が力を込めると、ガラスのように粉々に砕け散って塵へと還った。
それを見た他のラットたちは、自分たちの「熱」を喰らう怪物の存在に本能的な恐怖を抱き、金切り声を上げながら、スクラップの奥深くへと一斉に逃げ去っていった。
「ゲホッ……! ゴホッ……!」
静寂が戻ったゴミの谷に、凍夜の激しい喀血音が響いた。高密度のマグマ熱を急激に体内に取り込んだ代償として、凍夜の冷え切った心臓が激しい熱ショック(サーマル・ショック)を起こしていた。胸の紋様が赤と青に激しく明滅し、口元から流れ落ちた暗赤色の血が、足元の白い霜を汚していく。
「凍夜兄ちゃん!」
翔太が火傷を負った手で必死に凍夜を支えようとした。凍夜は膝を突き、荒い呼吸を繰り返しながら、自身の胸元を強く押さえた。身体の内側で、熱と冷気が激しく衝突し、肺がガラスのように軋む激痛が走る。
「……大丈夫だ。これしきの熱……すぐに処理できる」
凍夜は肺の痛みを堪え、自身の「熱エネルギー自己循環回路」を微かに稼働させて、体内のエントロピーを安定させた。
その様子を、リンはゴーグルを額に上げ、驚愕の眼差しで見つめていた。彼女の翡翠色の瞳には、恐怖ではなく、純粋な好奇心と感嘆が宿っていた。
「あんた……今、ラットの熱を直接『吸い取った』のか? アジールの大人たちは、あんたの力を『死を呼ぶ呪い』だなんて言ってたけど、とんでもない。この凍える墓場じゃ、熱を自在にコントロールできる力こそが、最高の『サバイバルツール』だよ」
リンは不敵に笑うと、リュックから冷たい金属スクラップを取り出し、翔太の火傷した手のひらに優しく当てて応急処置を施した。
「私はリン。見ての通り、地表のスカベンジャーさ。あんたのその力、私の『温度勾配探索法』と組み合わせれば、このスクラップの底に埋もれた旧時代の超お宝を、いくらでも掘り出せる。どうだい? 私と手を組まないか?」
凍夜は、リンの合理的な提案を静かに咀嚼した。彼女は凍夜を怪物としてではなく、一人の「生存競争のパートナー」として見ている。その冷徹なまでの実利主義が、今の凍夜には心地よかった。
「いいだろう。俺は体温を維持するための資源が必要だ」
「話が早くて助かるよ。じゃあ、さっそく案内してあげる。このスクラップ・ヒープの最深部、帝国のパトロールも近寄らない禁忌の領域に、すごい熱源の反応があるんだ」
リンはクロスボウを背負い、スクラップの迷宮のさらに奥へと歩みを進めた。凍夜は翔太の肩を支え、彼女の背中を追った。
リンの案内で薄暗いタービンの隙間を潜り抜け、最深部へと到達したその瞬間、凍夜の胸の青い紋様が、かつてない激しい共鳴を起こした。
スクラップの奥底、凍りついた瓦礫の隙間から、微かに、しかし極めて規則的で強固な「熱の脈動」が伝わってくる。それは、自然界の生物が放つ熱ではない。旧時代の軍事技術によって作られた、エントロピーを強制制御するための特殊な防具の反応だった。
「あれは……」
凍夜の瞳が、暗闇の中で青く鋭く輝いた。その視線の先には、凍りついた鉄格子の向こう側で、静かに眠る「熱量吸収式サーマルスーツ」のプロトタイプの影が、青白い光の中に浮かび上がっていた。
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