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氷点下の代償と追跡の影

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灰崎が去った後の診療所には、ただ、極寒の静寂だけが取り残されていた。錆びついたコンテナの隙間から吹き込むマイナス七十度の風が、微かに残るストーブの熱を容赦なく奪い去っていく。


「ひゅ、う……っ」


 氷室凍夜は、己の左腕を見つめていた。指先から始まった結晶化は、すでに肘の辺りまで青白い霜となって這い上がっている。それは皮膚というよりも、精巧に削り出された氷の彫刻のようだった。触れても、何も感じない。痛みすらも凍結したかのような、完全なる無。爪は硬質な氷晶と化し、動かそうとすると、関節の奥でガラスの破片が擦れ合うような嫌な軋み音が脳内に直接響いた。


「……動くなと言ったはずだ、小僧」


 新川源三が、額の傷から流れる血を煤けた白衣の袖で拭いながら立ち上がった。その手には、往診バッグから取り出した一本の古い金属被覆型水銀温度計が握られている。旧時代の精密医療機器メーカーが遺した、極低温対応の頑丈な測定器だ。


「診せてみろ。お前の体内で何が起きているのか、この目で確かめねばならん」


 源三は診療所の錆びついた鉄製の遮光シャッターを乱暴に閉め、外部からの光と視線を完全に遮断した。そして、凍夜のボロボロの綿入り防寒着をはだけさせ、その胸元に水銀温度計の金属製センサーを直接押し当てた。心臓の真上、怪しく青い光を放つ幾何学的な紋様。脈動するたびに、その紋様から微細な氷の粉塵が立ち上っている。


 その瞬間、温度計のガラス管の内部で、銀色の液体が狂ったように下降を始めた。


 三十度、二十度、十度、ゼロ度――そこからさらに、目盛りの限界を突破して下降していく。マイナス十度、マイナス二十度、マイナス三十度。


「バカな……人体の熱量ではない。これでは、まるで――」


 源三が驚愕の声を上げたその瞬間、水銀がマイナス三十八・八度に達した。水銀の融点。液体金属が急激に凝固し、体積を膨張させる。限界を超えた圧力が、頑丈なガラス管を内側から引き裂いた。


 ピシィィン、と甲高い音が響き、温度計が真っ二つに破裂した。凍りついた銀色の水銀の粒が、凍夜の青白い胸元にパラパラとこぼれ落ち、そのまま溶けることなく皮膚の上を転がった。


「体温計が、凍って破裂した……?」


 凍夜はかすれた声で呟いた。自身の体温が、生物としての生存限界を遥かに下回っている。それなのに、なぜ自分はまだ呼吸をし、思考できているのか。


「お前の心臓に宿るその紋様……いや、冷気の『核』は、周囲の熱を吸い尽くすブラックホールだ」


 源三は破裂した温度計を忌々しそうに投げ捨てると、引き出しから赤く発光する特殊な温熱パッチを取り出し、凍夜の胸元に貼り付けた。ジュウ、と湿った音がして、パッチから強制的に熱が注入される。だが、その熱すらも、青い紋様が一瞬で吸い尽くし、パッチはすぐに灰色に変色して冷え固まってしまった。


「一時しのぎにもならんか。小僧、警告しておく。お前がその冷気を使うたびに、お前の肉体は内側から結晶化していく。このまま力を使い続ければ、お前の心臓は完全に凍りつき、ガラスのように砕け散るぞ」


 源三の冷酷な、しかし医師としての真摯な警告が、凍夜の胸に重く突き刺さる。都合の良い奇跡など、この極寒の世界には存在しない。強大な力を振るう対価は、常に自身の命そのものなのだ。


「凍夜……さん……」


 細い、震える声がした。床に倒れていた陽菜が、見えない翡翠色の瞳を泳がせながら、必死に手を伸ばしていた。彼女の指先は、凍夜が灰崎の腕を凍らせたあの瞬間から、異常なほど青白く冷え切っている。爪の隙間には、うっすらと霜が降りていた。残酷な生命のリンク。凍夜の冷気は、最も身近にある陽菜の生命熱を無意識に吸い上げていたのだ。


「凍夜さん、どこ、ですか……? 冷たい……すごく、身体が冷たくて……」


 陽菜は目が見えないながらも、凍夜の気配を察知し、その冷え切った左手を両手で包み込もうとした。彼女の小さな手のひらには、凍死寸前の凍夜を救ったあの優しい温もりがまだ微かに残っていた。


 温めたい。その温もりに触れたい。


 凍夜の胸の奥で、人間としての渇望が激しく脈打った。だが、彼が陽菜の手を握り返そうとした瞬間、彼の指先から微細な氷晶が弾け、陽菜の皮膚を一瞬で白く変色させた。


「あ……っ!」


 陽菜の体が激しい悪寒に襲われ、彼女は小さく悲鳴を上げて身を縮めた。彼女を救うための力が、彼女の命を直接削り取ろうとしている。


「……触るな」


 凍夜は、引き裂かれるような痛みを堪え、自身の左腕を強引に引き剥がした。その声は、自分自身を拒絶するように冷たかった。


「俺に触れるな、陽菜。俺は、お前を凍らせる」


「そんなこと、ありません……! 凍夜さんは、私を助けてくれたのに……!」


 陽菜の目からこぼれ落ちた涙が、彼女の頬を伝う途中で小さな氷の粒へと変わり、床に落ちて乾いた音を立てた。触れたいのに、触れれば相手を殺してしまう。その絶対的な孤独が、凍夜の凍てついた心臓をさらに冷たく閉ざしていった。


 その時、診療所の天井にある錆びついた通気ダクトが、ガタガタと激しい音を立てた。


「うわっと!」


 煤汚れた灰色の防寒帽を被った少年が、ダクトの狭い隙間から滑り落ちてきた。孤児の翔太だ。彼は鼻水を垂らし、煤で汚れた顔を恐怖で引きつらせながら、凍夜たちの前に駆け寄った。


「大変だ、凍夜兄ちゃん! 新川のじいさん!」


「翔太、落ち着け。何があった」


 源三が翔太の肩を掴み、鋭い声で尋ねた。


「烈火党の奴らだよ! 灰崎が片腕を失って要塞に逃げ帰ったって、アジール中が大騒ぎになってる! 権藤のボスが激怒して、衛兵たちを総動員して『診療所を襲撃した青い光の化け物』を探し回ってるんだ! もうすぐこのエリアのハッチが全部ロックダウンされる!」


 翔太の言葉に、診療所内の空気が一瞬で凍りついた。


 ドォォォン――!


 遠くの防区で、巨大な防寒ハッチが閉鎖される重苦しい金属音が響き渡った。続いて、診療所の外の通路から、烈火党の拡声器による威圧的な警告音が響き始める。


『第十八区の全住民に告ぐ! 現在、要塞直轄の治安部隊が不審な冷却能力者の捜索を行っている! 熱源を放出しない不審人物、または体温が異常に低い者を匿っている者は、即座に同罪とみなし、外の世界への凍死刑に処す!』


 重厚なブーツの足音が、錆びた鉄板の床を鳴らしながら、確実にこの診療所へと近づいてきていた。熱感知センサーを搭載したパトロールドローンが、不気味な赤い光を点滅させながら通路を巡回している。


「小僧、ここに留まれば、陽菜も、あの子供たちも全員、権藤のボイラーの露にされるぞ」


 源三が静かに言った。彼の目は、すでに覚悟を決めていた。


「……分かっている」


 凍夜は無言で立ち上がった。結晶化した左腕は動かないが、右腕はまだ動く。自分がここにいれば、この診療所は間違いなく焼き払われるか、全員が極寒の外へと追放される。


 源三は診療所の奥にある厳重にロックされた木箱をこじ開け、一着の厚手の防寒コートを取り出した。何重にも縫い合わされた頑丈な獣皮と、特殊な耐寒繊維で作られた、アジールの自警団仕様のコートだ。


「これは、数年前に死んだ儂の息子――健一のコートだ。これをお前が着ろ。お前のその結晶化した腕を隠すのにも役に立つ。裏地には、お前を助ける『何か』があるはずだ」


 凍夜は源三からコートを受け取り、その広い肩に羽織った。古いウールと微かな潤滑油の匂いが、凍夜の鼻腔をくすぐる。それは、かつてこのアジールを守ろうとした男の温もりの残滓だった。


「凍夜さん……行っちゃう、んですか?」


 陽菜が、見えない目で凍夜の方向を必死に探りながら、震える声で尋ねた。


「俺がいれば、ここは戦場になる。お前たちを守るためには、俺が消えるしかない」


 凍夜は、陽菜の「陽菜の贈り物」を優しく彼女の肩に掛け直した。ゲルの熱が、彼女の冷え切った体を包み込んでいく。


「待って、俺も行くよ!」


 翔太が凍夜のコートの裾を掴んだ。


「お前はここに残って、陽菜と子供たちを守れ。俺の代わりに、この診療所の『火種』を絶やすな」


 凍夜は翔太の頭に手を置き、静かに言い聞かせた。翔太はその言葉に、悔しそうに歯を食いしばりながらも、小さく頷いた。


「……約束だぞ、兄ちゃん。絶対に、生きて帰ってきてよ」


「ああ」


 凍夜は短く答えると、診療所の非常用ダクトのハッチへと向かった。外からは、すでに「ハッチを開けろ!」という烈火党の衛兵たちの怒号と、ハッチを乱暴に叩く金属音が響き渡っている。


「新川、陽菜を頼む」


「言われずとも、儂の命に代えても守る。お前は生き延びろ、凍夜。お前の冷気は、呪いなどではない。いつか、この極寒の世界を終わらせるための――」


 源三の言葉の最後は、ハッチがこじ開けられる轟音によってかき消された。


 凍夜はダクトの闇の中へと滑り込み、診療所を脱出した。マイナス七十度の極寒のブリザードが吹き荒れる、アジールの外縁部。熱感知ドローンの赤い光が暗闇を切り裂く中、凍夜は自身の『氷点(ゼロ・マイナー)』の極低温体質を利用し、一時的に呼吸を止めて周囲の氷壁と完全に温度を同調させた。


 サーモグラフィの視界において、彼は完全なる「動かぬ石」と化し、センサーの目を欺く。


 吹き荒れる雪嵐の中、凍夜は健一の防寒コートの襟を立て、アジールの北側にある巨大なゴミの谷「廃棄物処理場「スクラップ・ヒープ」」へと向けて、一人、歩みを進めた。背後に残した診療所の温もりを、その胸に刻み込みながら。感情を持たぬはずの冷気の神の胸に、小さな、しかし決して消えない静かな「誓い」の火が灯っていた。

HẾT CHƯƠNG

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