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凍える心臓と最初の火種

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意識が戻った瞬間、最初に感じたのは、肺を鋭利な刃物で内側から掻き毟られるような激痛だった。


「ひゅ、う……っ」


 喘ぐように吐き出した呼気は、一瞬で真っ白な氷の結晶となり、錆びついて剥がれかけたコンテナの天井へと吸い込まれていった。全身の関節が錆びた機械のように軋み、指先一つ動かすことすらままならない。極寒。体温が急速に奪い去られていく。いや、違う。熱が外に逃げているのではない。己の肉体の中心、心臓の奥深くから、底知れぬ「冷気」が異常な脈動と共に湧き出し、血管を、内臓を、細胞を凍てつかせようとしているのだ。


「あ……気がついた、んですか?」


 かすれた、しかし鈴を転がすような少女の声が、凍りつきかけた鼓膜を震わせた。視界は白く霞み、輪郭すら定まらない。だが、目の前に、擦り切れた灰色のウールショールを深く被った小柄な影があることだけは分かった。その影は、光を失った澄んだ翡翠色の瞳を泳がせながら、必死に凍夜の胸元に手を当てていた。


「今、温めますからね。お願い、まだ消えないで……!」


 少女――陽菜は、寒さで赤くなった小さな両手を凍夜の胸に押し当て、必死に擦り続けていた。彼女の体温は微弱だったが、凍夜の凍てついた皮膚にとっては、まるで焼きごてを当てられたかのような熱い衝撃となって伝わる。それと同時に、彼女は自身が羽織っていた厚手の防寒毛布を凍夜の体へと掛け直した。蓄熱防寒毛布「陽菜の贈り物」。旧時代の高度な技術で作られたそのマテリアルは、陽菜の生命熱を吸い込み、凍夜の凍えた皮膚を優しく包み込んでいく。人間としての「温もり」が、死の淵にあった凍夜の意識を辛うじて現世へと繋ぎ止めた。


「無理に動くな、小僧。死にたくなければな」


 部屋の奥から、低く掠れた老人の声が響いた。煤けた白衣の上に古い革ベストを重ね着した大男――新川源三が、錆びついたポータブルストーブに、なけなしの合成石炭をくべながら、忌々しそうに吐き捨てた。


「お前は地表近くの廃棄物処理場で半ば凍りついた状態で転がっていた。陽菜が引きずってここに連れてこなければ、今頃はカチコチの氷像になってスクラップの肥やしになっていたところだ」


 源三は凍夜の胸元をはだけさせると、その皮膚を凝視した。凍夜の胸部、心臓の真上には、青く怪しく発光する幾何学的な紋様が浮かび上がっていた。脈動するたびに、その紋様から微細な氷晶の粉が立ち上っている。


「心臓の結晶化……。異常な冷気がお前の内側から湧き出している。私は長年、この第18区で凍傷の治療をしてきたが、こんな奇妙な病態は見たことがない。お前は何者だ?」


「俺、は……」


 凍夜はかすれた声を絞り出そうとしたが、自身の名前以外の記憶が、冷たい霧の彼方に消え去っていた。自分がなぜここにいるのか、なぜこの心臓が凍りついているのか、何も思い出せない。分かっているのは、この心臓が脈打つたびに、世界から熱を奪い去りたいという、本能的な飢餓感が脳を支配することだけだった。


 その時、診療所の頑丈な鋼鉄製のハッチが、暴力的な衝撃音と共に悲鳴を上げた。


 ドン、と鈍い金属音が響き、ハッチの隙間からマイナス70度の極寒のブリザードが室内に容赦なく吹き込んできた。ストーブの微弱な火が激しく揺らぎ、診療所内の温度が一瞬で氷点下へと急降下する。


「おいおい、相変わらずここはドブネズミの巣だな。暖房の配給が足りねえんじゃねえのか、新川のジジイ」


 入ってきたのは、きっちりとした烈火党の制服を着こなした男だった。腰には軍用の小型熱線銃を佩き、手には徴収記録用の電子データパッドを握っている。第18区アジールの熱量を独占する暴君、権藤竜生の忠実な部下であり、冷酷な熱量徴収官として恐れられる男――灰崎だった。彼の背後には、同じく制服を着た二人の武装衛兵が立ち塞がっている。


「灰崎……! 徴収期限はまだ先のはずだ。なぜ今ここに来る」


 源三が陽菜と子供たちを背後に庇いながら、鋭い眼差しで灰崎を睨みつけた。


「期限? そんなものは権藤ボスの気分次第でどうとでも変わるんだよ」


 灰崎は冷笑しながら、データパッドを指先で叩いた。


「炭鉱区のボイラー圧が下がってな。中層の篝一族様への上納熱量が足りねえんだ。当然、お前ら無熱民の配給分から削る。というわけで、新川診療所、今月のカロリー・チップをすべて出せ。今すぐだ」


「ふざけるな!」


 源三の声に怒りが宿る。


「ここにあるチップは、低温症で明日をも知れぬ子供たちや、重度の凍傷患者の命を繋ぐための最低限の備蓄だ! それを奪えば、この診療所にいる者たちは全員、数日中に凍死する!」


「無熱民が何人凍死しようが、エントロピーの損失にすらならねえよ」


 灰崎は冷淡に言い放つと、腰の熱線ピストルを引き抜いた。銃口が真っ赤に赤熱化し、銃身から発せられる熱気が、周囲の霜を瞬時に水滴へと変えていく。


「抵抗するなら、今ここでその頭を焼き切って、診療所ごとボイラーの燃料にしてやってもいいんだぞ?」


 その威圧的な熱量に、背後に隠れていた幼い孤児たちが悲鳴を上げて震えだした。陽菜は目が見えないながらも、灰崎が放つ殺気と熱をその鋭敏な肌で感じ取り、凍夜の毛布を握る手に力を込めた。


「待って、ください……!」


 陽菜が震える声で前に出ようとした。だが、灰崎はそれを邪魔そうに、熱線銃を握っていない左手で、陽菜の肩を乱暴に突き飛ばした。


「すっこんでろ、盲目の小娘が!」


「きゃっ……!」


 陽菜の小さな体が床に転がり、彼女が大切に抱えていた「陽菜の贈り物」がその手から滑り落ちた。


 床に倒れた陽菜の頬が、冷たい鋼鉄の床に触れて凍りつきそうになる。その様子を、ベッドの上から見ていた凍夜の心臓が、ドクン、とこれまでになく激しく脈動した。


 脳裏に、激しい怒りが、冷たい炎となって燃え上がる。


(あの温もりを……奪わせるな)


 凍夜は、自身の結晶化した筋肉の激痛を無視し、無理やりベッドから這い出た。しかし、床に足を突いた瞬間、全身の関節が凍りついたようにロックされ、そのまま床に膝を突いてしまう。筋肉の結晶化(バックラッシュ)による身体の硬直だ。動かない。思い通りに動かない肉体に、凍夜は歯を食いしばった。


「あァ? なんだその死に損ないのゴミは」


 灰崎が凍夜を見下ろし、その脇腹を容赦なく踏みつけた。


「ぐっ……!」


「おい新川、こんな奴まで匿ってんのか? ただでさえカロリーの無駄だってのに、余計な口を増やしやがって」


 灰崎は凍夜を蹴り飛ばすと、床に落ちていた「陽菜の贈り物」に目を留めた。その特殊なナノファイバーの質感を一目で見抜き、彼の薄汚い目が欲望にギラついた。


「ほう、こいつは上等な防寒毛布だな。旧時代の帝国製か? 無熱民が持っていい代物じゃねえ。こいつも徴収だ。中層の闇市に流せば、カロリー・チップ数百枚にはなる」


「だめ……! それは、お母さんの……!」


 陽菜が涙を流しながら、見えない手を伸ばして毛布を掴もうとした。だが、灰崎はその手を容赦なく踏みにじろうと、ブーツの底を振り上げた。


 その瞬間、凍夜の胸の青い紋様が、かつてない眩い光を放った。


 キィィィン――!


 耳鳴りのような鋭い金属音が診療所内に響き渡り、室内の空気が一瞬にして結露した。床、壁、天井の錆びた鋼鉄の表面に、幾何学的な美しい氷の結晶が、恐るべき速度で這い回り、真っ白な霜の結界を作り出していく。ストーブの火は一瞬でかき消され、ストーブの金属自体が急激な熱収縮により「ミシ、ミシ」と悲鳴を上げた。


「な、なんだこの冷気は……!? 熱線銃の出力が下がって――」


 灰崎が驚愕して熱線銃を見つめた。真っ赤に輝いていた銃口の光が、急速に失われていく。空気中の熱が、物理的な対流を無視して、凍夜の心臓へと吸い込まれているのだ。


 凍夜は立ち上がっていた。その瞳は冷徹な氷晶の青へと染まり、全身から薄い霧のような冷気が立ち上っている。彼は無言のまま、灰崎に向けて一歩を踏み出した。


「化け物め、死ね!」


 灰崎が引き金を引いた。だが、銃口から放たれたのは、本来の摂氏500度の熱線ではなく、弱々しい赤い火花に過ぎなかった。その火花の熱量すらも、凍夜が差し出した左の手のひらへと吸い込まれ、一瞬で消失する。熱力学第一法則の逆転。敵が放つ熱エネルギーが強ければ強いほど、凍夜の心臓の封印はそれを吸収し、自身の冷気の「燃料」へと変換するのだ。


「ひっ……!?」


 灰崎が恐怖に顔を歪め、後退しようとした。だが、凍夜の動きの方が遥かに速かった。凍夜は一歩で距離を詰め、灰崎が熱線銃を握っている右腕を、素手で直接掴んだ。


「接触凍結(タッチ・フリーズ)」


 凍夜が静かに呟いた瞬間、灰崎の右腕からすべての「熱(分子運動)」が暴力的に奪い去られた。


「ぎゃあああああああああっ!?」


 灰崎の絶叫が診療所に響き渡る。彼の右腕の皮膚から一瞬で血の気が失われ、青白い氷の結晶が指先から肘に向けて一気に駆け上がっていった。血管を流れる血液が凍りつき、細胞内の水分が凍結膨張して細胞膜を破壊していく。灰崎が纏っていた毛皮の袖が、凍りついてガラスのように硬化していく。


「熱を、俺の熱を返すんだ! 熱い、いや、冷たい! 腕が、俺の腕がァ!」


 灰崎は左手で自身の発火能力を起動し、右腕を加熱して氷を溶かそうとした。しかし、彼が生成した微弱な熱エネルギーは、接触している凍夜の手のひらを通じて、瞬時に心臓の封印へと吸い取られていく。加熱しようとすればするほど、凍夜の冷気の出力が跳ね上がり、凍結の速度が加速する。等価交換の容赦なきルール。熱を奪う行為そのものが、絶対零度の深淵を作り出すのだ。


 灰崎の右腕は、完全に青白く半透明な「氷の彫刻」と化していた。熱線銃を握ったまま、指先から肩の付け根までが、完全に分子運動を停止した「死の腕」へと変貌している。


 凍夜が、掴んでいた右腕を軽く捻った。


 パキィィィン――!


 硬質な、ガラスが割れるような音が響いた。灰崎の右腕が、肘の関節から先で綺麗に破断し、床に落ちて粉々に砕け散った。そこには血の一滴すら流れていない。切り口は完全に凍りつき、滑らかな氷の断面を見せているだけだった。


「あ、あ、あああ……!」


 灰崎は自身の失われた右腕の断面を見つめ、声にならない悲鳴を上げながら床にへたり込んだ。背後にいた二人の武装衛兵は、熱線銃を構えることすら忘れ、目の前の「冷気の悪魔」に完全に圧倒されていた。


「う、腕が、砕け……化け物、こいつは化け物だ!」


「灰崎様を連れて退け! 早くしろ!」


 衛兵たちは、失禁せんばかりの恐怖で灰崎の体を抱き起こすと、ハッチを突き破るようにして極寒の吹雪の中へと逃げ去っていった。診療所内に、冷たい静寂が戻る。


 凍夜は、ゆっくりと自身の左手を見つめた。


 そこには、勝利の余韻などなかった。灰崎の熱を奪った代償として、凍夜の左手の指先が、完全に青白い氷の結晶へと変貌していた。爪は硬質な氷晶となり、皮膚は感覚を完全に失っている。触覚がない。指を曲げることすら、ガラスの破片を動かすような軋みを感じる。力を使い続ければ、いずれ自身の肉体が完全に結晶化して死に至る。その残酷な事実が、凍夜の胸を締め付けた。


 そして、それと同時に、背後から陽菜の激しい咳き込みが聞こえた。


「は、あ……っ、つ、めたい……」


 陽菜の体が激しく震え、彼女の指先が、凍夜の冷気発動と連動するように青白く光り始めていた。二人の生命力は、見えない熱の導管で繋がっている。凍夜が冷気を使用するたびに、陽菜の体温が強制的に奪われるという残酷な呪い――。


 凍夜は自身の結晶化した左手を隠すように握りしめ、倒れかけた陽菜の体を、その冷え切った体で抱きしめることもできず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。アジールの支配者・権藤に自身の存在が知れ渡った恐怖と、大切な者を自身の力で殺しかねないという絶望が、地下世界の暗闇に深く沈み込んでいった。

HẾT CHƯƠNG

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