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亡霊の刃と泥臭き鉄鎖

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「――あ、あああああああッ!!」


シンの悲鳴が、半壊した探偵事務所の天井を震わせ、崩落するコンクリートの粉塵を揺らした。ゴズの巨大な鋼鉄の指に掴まれ、容赦なく握り潰されていく彼の右脚のサイバー義肢。剥き出しになった配線から放たれる青白いスパークが、少年の幼い顔を苦痛で白く染め上げ、千切れた回路が生き物のようにのたうち回る。


「まずは、その目障りなガキから処理してやる。超能力も持たぬ、ただの機械の紛い物が」


ゴズの喉に埋め込まれた合成音声スピーカーが、感情を廃したノイズ混じりの音を響かせる。彼の背中で、超高出力を生み出す「軍用核熱シリンダー」が不気味な排気音を立てて過熱を開始した。熱を帯びたシリンダーの冷却弁から、シューと白い過熱蒸気が噴き出し、事務所内の冷たい空気を一瞬で熱風へと変える。シンの頭部を粉砕せんと、ゴズの巨大な機械アームがゆっくりと、だが絶対的な死の質量を伴って振り上げられた。


(止めろ……止めろ、ゴズ……!)


床に這いつくばる九条朔の視界が、怒りと吐血によって赤く染まる。肋骨が数本へし折れ、動くたびに肺を突き刺すような激痛が全身を走った。サジの毒針に貫かれた左手の掌は血に濡れ、感覚を失った漆黒の右腕はポケットの中で鉛のように重い。影の触手も、サジから奪った毒の能力も、ゴズの「超能力無効化装甲」に触れた瞬間に霧散する。能力は一切通用しない。目の前で、弟子であるシンの命が刈り取られようとしている。


その極限の絶望の淵で、朔の脳裏に、かつて黒雨街の片隅で安ウイスキーのボトルを抱えていた男の、掠れた声が蘇った。


『いいか、朔。超能力なんて理不尽な力に頼るな。あれは世界のバグだ。本物の戦闘ってのはな、骨と肉の論理で動く。重い質量を持つ奴ほど、重心の移動にはコンマ数秒の遅れが生じる。合気ってのは、そのコンマ数秒の隙間に、敵の力をそのまま流し込む技術だ』


武術の師――「酔いどれの剣客」の教えだった。超能力が無敵のサイボーグであっても、物理的な「質量」と「重心」の法則からは決して逃れられない。


「シ、シン……ッ!」


朔は血を吐きながら、激痛に叫ぶ身体を無理やり引きずり、床を蹴った。超能力ではない。純粋な肉体のバネと、死線で研ぎ澄まされた生存本能。ゴズの巨大な機械拳が、シンの頭部に向けて振り下ろされたその刹那、朔はシンの身体を巻き込むようにして、ゴズの懐へと滑り込んだ。


「小癪な虫ケラが」


ゴズが視線を朔へと向け、空いた左の機械アームで朔の胴体を叩き潰そうと横なぎに振るう。数トンの衝撃が迫る。だが、朔はそれを力で受け止めようとはしなかった。


朔は左手の血塗られた包帯の感覚を研ぎ澄まし、ゴズの振り下ろされるアームの手首に触れた。そして、ゴズの突進の推進力と物理的な質量を、自身の肉体の芯を起点にして、そのまま円運動を描くようにして受け流した。合気――敵の重心の崩し。


ズゴォォォンッ!!!


ゴズの巨大な左拳は、朔の身体を捉えることなく軌道を逸らされ、探偵事務所の床コンクリートへと深く突き刺さった。床が蜘蛛の巣状に割れ、激しい衝撃波が周囲のガレキを吹き飛ばす。ゴズの巨体が、自身の質量と突進力の慣性によって、一瞬だけ前方へと前のめりに傾いた。重心の崩壊。無敵のサイボーグに生じた、物理的な隙だった。


「な……に……」


ゴズの光学センサーが不審に点滅する。超能力の予兆が一切ない、純粋な物理技術によるカウンター。それがゴズの予測演算回路を狂わせたのだ。


「ツムギ! 今だッ!!」


朔は左腰のホルダーから、超振動セラミックでできた刃渡り二十センチの「特殊タクティカル・ナイフ」を左手で引き抜いた。右腕の感覚はない。だが、左手にはまだ、親友を失った怒りと、シンを守るという執念が宿っている。朔はナイフのスイッチを押し、目に見えない超高速の振動を開始させた。狙うはゴズの首元、装甲の隙間から露出した人工筋肉の配線。朔は踏み込み、ナイフを突き出した。


しかし、ゴズの近接戦闘プログラムは伊達ではなかった。重心を崩されながらも、ゴズは胴体から伸びる補助のサブアームを瞬時に駆動させ、朔のナイフの刃を金属の爪で弾いた。


キィィィンッ!


激しい金属音と共に、朔の左手からナイフが弾き飛ばされそうになる。凄まじい物理的衝撃が左手の指の骨に伝わり、サジの毒針傷が再び裂けて血が吹き出した。朔は激痛に顔を歪めながらも、ナイフのグリップを死に物狂いで握り直した。


「無駄だ。貴様の物理火力では、この装甲の隙間すら穿つことはできん」


ゴズが機械アームを床から引き抜き、再び朔を圧殺しようと構える。その時、ガレキの隙間から、壊れた端末を抱えたシンが、血塗れの顔を上げて叫んだ。


「師匠……まだ、ハッキングポートは生きてます! 僕が……ゴズの冷却システムに、過負荷のパッチを送る!」


シンの細い指先が、火花を散らすキーボードの上を超高速で叩いた。彼の右脚の義肢は完全に潰れ、激痛ショックで意識が飛びかけているはずだった。だが、シンの瞳には、朔の背中を追い続けようとする、技術者としての執念が燃えていた。


ピピッ、とシンの端末から鋭いビープ音が響く。ゴズの背中の「軍用核熱シリンダー」の排気音が、一瞬だけ不規則な高音へと変化した。冷却サイクルへのハッキングパッチの強制送信。ゴズの熱制御システムが、一瞬だけエラーを感知して処理を遅延させた。


「朔、これを使って!!」


ガレキの陰からツムギが叫び、朔に向けて丸い金属製のデバイスを投げ渡した。シンがスクラップから自作した、強力な電磁指向性爆弾――「電磁パルス(EMP)グレネード」だった。


朔は空中でグレネードを左手でキャッチし、安全ピンを歯で引き抜くと、それをゴズの足元のコンクリートの割れ目へと押し込んだ。ゴズがそれを踏み潰そうとした瞬間、朔は全力で後方へと飛び退いた。


バチィィィィンッ!!!


耳を劈くような電磁の破裂音が響き、事務所の暗闇が青白い強烈な光の嵐で満たされた。EMPグレネードの炸裂。周囲の電子機器が一斉にショートし、ツムギのデッキのモニターがブラックアウトする。その青い光の奔流は、ゴズの全身を覆う超能力無効化装甲をも直撃した。


ジジジ、ジジ、と不気味な放電音がゴズの装甲から響く。企業の最先端シールドであっても、至近距離でのEMPの直撃には耐えられず、システムが一時的な再起動(リブート)に入った。装甲から立ち上っていた青い光の粒子が消え去る。無効化シールドの停止時間――わずか、三秒。


「バグ……システム、一時休止(スタン)……」


ゴズの光学センサーが消灯し、彼の巨体が硬直した。一秒。


朔は床を蹴り、弾き出されるようにして前進した。肋骨の破片が肺を圧迫し、口から血が溢れる。だが、朔の左目は、ゴズの背中で激しく蒸気を吹き出している、シリンダーの「冷却弁」を正確に捉えていた。二秒。


朔は超振動ナイフを両手で――感覚のない漆黒の右腕を添え、血に染まった左手でグリップを握り締め、全身の体重を乗せて突き出した。


「おおおおおッ!!」


ガキィィィンッ!!!


超振動のセラミック刃が、シールドの消えたゴズの装甲の隙間を穿ち、核熱シリンダーの真鍮製の冷却弁へと深く突き刺さった。金属を削る凄まじい摩擦音と共に、ナイフの刃がシリンダーの内部機構へと侵入していく。三秒。


「システムエラー! シリンダー、温度急上昇(オーバーヒート)――」


ゴズの合成音声が、初めて狂ったような警告音を鳴り響かせた。冷却弁を破壊されたことで、シリンダー内部の熱制御が完全に暴走したのだ。


プシューーーッ!!!


シリンダーの亀裂から、数百度の超高熱蒸気が猛烈な勢いで噴き出した。ゴズの右半身の人工筋肉が熱で融解し、機械アームのジョイントからバチバチと赤黒い火花が飛び散る。ゴズは金属の悲鳴を上げながら、後方へとよろめいた。その光学センサーは激しく明滅し、もはや朔たちを捉える制御力を失いつつあった。


「撤退……バグの排除、一時中断……」


ゴズは暴走するシリンダーを引きずり、崩落する事務所の壁の向こう、豪雨が吹き荒れる夜の闇の中へと、苦悶の声を上げながら退却していった。彼の巨大な足跡が、床に焦げ付いたオイルの跡を残していく。


「サク、シンを! もうこのビル自体が持たないわ!」


ツムギが叫び、崩落しかけた天井を指差した。事務所を支えていた主柱が完全にへし折れ、メキメキと音を立てて天井のコンクリートが崩れ落ちてきている。あと数十秒で、この雑居ビル全体が瓦礫の山へと変わるだろう。


「シン、掴まれ!」


朔はナイフを回収し、床に倒れるシンの身体を左腕一本で抱き起こした。シンの右脚の義肢は完全にひしゃげ、金属の骨組みが痛々しく露出している。少年は激痛とショックで、すでに意識を失いかけていた。


「ツムギ、ジローの隠し通路を開けろ!」


「わかってる! こっちよ!」


ツムギが半壊したスチール机の後ろ、床に隠された金属製のハッチを蹴り開けた。ジローが企業の追跡から逃れるために、旧下水道の空洞を利用して極秘に構築したセーフハウス――「地下下水道の隠れ家」へと繋がる縦穴だった。


朔はシンを抱きかかえ、ツムギと共にハッチの中へと滑り込んだ。彼らの身体が暗闇へと落ちていくのとほぼ同時に、頭上で探偵事務所の天井が凄まじい轟音と共に完全に崩壊し、すべてのネオンの光が瓦礫の下へと埋もれていった。


***


冷たい水の流れる音が、暗闇の中に響いていた。


地下数十メートル、有毒な化学廃棄物の臭いが微かに漂う旧下水道の分岐点。ジローが構築したシェルターの内部は、企業の精神スキャン電波を遮断する強力な電磁シールドによって、静寂と安全が保たれていた。古びた発電機の低音だけが、コンクリートの壁に反響している。


朔は、簡易ベッドの上にシンを静かに横たえた。シンの右脚のサイバー義肢は、膝から下が完全にねじ切れ、ちぎれた配線から時折小さく火花が散っている。シンの呼吸は浅く、額には苦痛による冷や汗が滲んでいた。


「ジローに連絡を取るわ。シンの義肢のスペアと、応急処置の器具を持ってこさせなきゃ」


ツムギが震える手でポータブルデッキを操作しながら、弱々しい声で言った。彼女の緑色の瞳は、半壊した事務所に残してきた蓮の古本や、シンの無惨な姿を見て、深い悲痛と自責の色に濁っていた。嘘の色彩視覚を起動せずとも、彼女の周囲に漂う「悲痛な青色」が、朔の左目にはっきりと見えていた。


朔は壁に背を預け、ゆっくりと床に滑り落ちた。折れた肋骨が胸の内で軋み、息をするたびに血の味が喉の奥に広がる。彼は左手を開き、血に染まった包帯を見つめた。指先が微かに震えている。武術の師の教えがなければ、今頃自分たち全員が、あのゴズの鉄拳の下で肉塊に変わっていただろう。


超能力に依存するリスク。そして、己の肉体のあまりの脆さ。


朔は右ポケットに左手を入れ、錆びついたZippoライターの表面を静かになぞった。脳内の蓮の幻影は、先ほどの衝撃の余波か、今は何も囁かない。静寂だけが、朔の脳波を支配していた。


シンを傷つけられ、自分たちの唯一の居場所であった探偵事務所を破壊された。黒蛇会、そしてその背後にいる企業の冷酷な力への怒りが、朔の胸の奥で、どす黒いマグマのように沸き立っていく。


朔は、ベッドの上で苦しげに息を吐くシンの壊れた義脚を、左手で静かに抱きしめた。少年の冷たくなった金属の足が、朔の掌に冷酷な現実を突きつけているようだった。朔の瞳は、これまでにない冷徹で、底知れぬ「黒い怒り」によって、静かに染まっていった――。

HẾT CHƯƠNG

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