要塞を穿つ鉄腕のゴズ
深夜。ネオ・シンジュクの最下層「黒雨街」に、今夜も容赦のない酸性雨が降り注いでいた。上層都市から垂れ流される不浄な排水は、路地裏の錆びついたトタン壁を穿ち、淀んだネオンの光を反射しながら、ドブ川のような濁った極彩色をアスファルトの上に描き出している。
その黒雨街の片隅、雑居ビルの三階にある九条探偵事務所の室内は、静寂に包まれていた。窓を叩く雨音だけが、室内の重苦しい空気をかろうじて紛らわせている。
朔は、スチール製の古い机の前に腰掛け、左手で錆びついたZippoライターを握りしめていた。感覚を失った右腕は、肘の上まで漆黒の結晶に覆われ、コートのポケットの中で冷たい石のように沈んでいる。サジの毒針に貫かれた左手の掌は、包帯で固く巻かれているものの、未だに心臓の鼓動と同期するようにズキズキとした激痛を放っていた。
朔は左手の親指で、ライターの表面に刻まれた探偵事務所のロゴを強く擦った。金属の冷たい感触が、脳内で暴れ狂うサジの残虐な嘲笑を抑え込むための唯一の「錨」だった。蓮の防壁がサジの声をノイズに変えてくれているおかげで、辛うじて理性を保てている。
「黒蛇会のサジが消えた。奴らはすぐに動くわよ」
室内の薄暗い明かりの中、情報屋のツムギがポータブルデッキのキーボードを叩きながら言った。彼女の緑色の瞳には、隠しきれない焦燥と、どこか自責の念を含んだ複雑な光が宿っている。
「サジの記憶から引きずり出した情報は一つ。蓮を殺した実行犯は、黒蛇会の若頭『黒崎』だ。奴は重力を操るB級能力者。正面から戦えば、あんたの影狼の力なんて、重力の壁に叩き潰されて終わりよ」
「わかっている」
朔は感情を削ぎ落とした声で応えた。右腕の触覚を失い、左手も傷だらけの今、まともな戦闘など自殺行為に等しい。だが、胸の奥で燻る復讐の炎が、彼を立ち止まらせることを許さなかった。
「師匠! でも、サジから奪った『毒針』の能力があります!」
事務所の隅で、油まみれのオーバーオールを着た十四歳の少年、シンが声を上げた。彼はゴーグルを額に掲げ、ジローから譲り受けたマルチツールを手に、自身のサイバー義肢のジョイントを調整していた。その瞳は、朔に対する純粋な憧れと、役に立ちたいという焦りに満ちている。
「サジの水分毒化の能力を、影狼の影の触手に付与できれば……黒崎の重力障壁をバイパスして、内側から麻痺させられるかもしれない。僕がシミュレーションのハッキングコードを組みます!」
「無理をするな、シン。お前の義肢の出力はまだ安定していない」
朔がそう窘めた瞬間、ツムギのデッキが、それまでの静寂を切り裂くような鋭い警告音を鳴り響かせた。赤く点滅するエラーウィンドウが、彼女の顔を不気味に照らし出す。
「――待って。ビルの外周監視カメラの映像に異常。電磁ノイズが走ってる……赤い光? ドローンにロックオンされてる!」
「何だと?」
朔が立ち上がろうとした、その瞬間だった。
ズゴォォォンッ!!!
鼓膜を破らんばかりの爆音と共に、探偵事務所の正面壁が内側へと激しく粉砕された。コンクリートの破片、赤錆びた鉄パイプ、そして引き裂かれた古本のページが、猛烈な爆風に乗って室内に吹き荒れる。ツムギが悲鳴を上げて床に伏せ、シンがガレキの陰へと転がり込んだ。
もうもうと立ち込める灰色の煙と、飛び散るネオンの火花の向こうから、圧倒的な質量を持つ巨大な影がゆっくりと歩み出てきた。
身長二・二メートル。右半身を軍用の巨大な重装甲プレートで覆い、むき出しのスキンヘッドの頭部に不気味な傷跡を刻んだ大男。黒蛇会が誇る最高用心棒、「鉄腕のゴズ」だった。
彼の背中からは、超高出力を生み出す「軍用核熱シリンダー」が低く唸るような、重厚な機械の駆動音が不気味に響いている。
「見つけたぞ、バグめ。サジの兄貴を消したネズミが、こんな薄汚い穴ぐらに隠れていようとはな」
ゴズの喉に埋め込まれた合成音声スピーカーが、金属質なノイズ混じりの声を響かせる。その単調な音響は、目の前の命をただの「処理対象」としか見なしていない冷酷さを物語っていた。
「黒蛇会の用心棒か……!」
朔は即座に左手を前に突き出し、自身の足元から影を急速に膨張させた。結晶化した右腕はポケットに入れたまま、左手の意志だけで影を操る。
「影の触手(シャドウ・テンタクル)!」
朔の影から、光を一切反射しない漆黒の鋭い触手が数本這い出し、生き物のようにうねりながらゴズの足元へと伸びた。ゴズの巨大な肉体を拘束し、動きを止める。それが朔の狙いだった。
しかし、影の触手がゴズの防弾・耐電装甲に接触した瞬間、パチパチと青白い電磁の火花が激しく弾けた。影の触手は、まるで熱い鉄板に触れた氷のように、一瞬にして実体を失って霧散してしまったのだ。
「な……ッ!?」
朔の左目の瞳孔が驚愕に揺れた。影が消されたのではない。影を形成する超能力の精神エネルギーそのものが、ゴズの装甲に触れた瞬間に完全に分散され、無効化されたのだ。
「無駄だ、超能力者(サイキック)」
ゴズは重厚な足取りで、コンクリートの床を軋ませながら一歩踏み出した。彼の全身を覆う装甲から、かすかに青い光の粒子が立ち上っている。ヘリオス社製の「超能力無効化装甲」――下層の違法能力者を完封するために開発された、最悪の特許テクノロジーだった。
「お前たちの姑息な手品など、企業の科学力の前にはただのバグに過ぎん。俺の肉体に超能力は通用しない」
ゴズは背中の核熱シリンダーを過熱させ、凄まじい排気音と共に突進を開始した。その突進速度は、二メートルを超える巨体からは想像もつかないほど超高速だった。重戦車が突っ込んでくるような圧倒的な物理の圧迫感が、朔の視界を支配する。
「影の盾(シャドウ・シールド)!」
朔は咄嗟に足元の影を自身の前面に立ち上げ、鉄板以上の硬度を持つ漆黒の盾を形成した。しかし、ゴズは止まらない。彼の右腕――超振動を帯びた軍用の巨大な機械アームが、眩い火花を散らしながら朔の盾へと叩きつけられた。
キィィィィンッ!!!
鼓膜を直接破壊するような超高周波の金属音が響き、朔の影の盾は、高周波の振動によって結合を直接断ち切られ、ガラスのように粉々に砕け散った。無効化装甲と超振動機械拳の組み合わせの前に、影の防御は完全に無力だった。
「がはっ……!」
盾を突き破って伝播した物理的な衝撃波が、朔の胸骨を直撃した。朔の身体は木の葉のように宙を舞い、事務所の奥にあるスチール製の机へと猛烈な勢いで叩きつけられた。スチールの天板がぐにゃりと歪み、朔の肋骨が数本、鈍い音を立てて破砕される。
肺が押し潰され、呼吸が止まる。朔は床に転がり、喉の奥からせり上がった熱い血を激しく吐き出した。視界が急速に明滅し、脳内の蓮の防壁が衝撃で激しく揺らぐ。
「師匠!!」
シンの悲痛な叫びが響く。しかし、ゴズは朔に追撃をかけることすらせず、退路を断つように探偵事務所の中央へと歩みを進めた。彼の狙いは、この事務所にいる全員の抹殺だった。
ゴズは巨大な機械アームを振り上げ、事務所の天井を支える唯一の主柱へと、容赦のない一撃を叩き込んだ。
ズドォォンッ!!
主柱が中央からへし折れ、コンクリートの地割れのような音が天井に走る。メキメキと音を立てて、事務所の天井が崩落し始めた。巨大なコンクリートの塊が次々と落下し、室内に灰色の煙が立ち込める。
「ツムギ、逃げろ! ここは崩れる!」
朔は血を吐きながら叫んだが、立ち上がることすらできなかった。肋骨の骨折が肺を突き刺し、動くたびに激痛が全身を走る。右腕の結晶化の重みが、今の非力な肉体には耐え難い鉛のようだった。
ツムギはガレキの影に身を潜め、必死にポータブルデッキからゴズの電磁シールドをハッキングしようと試みていた。しかし、ゴズの対電磁シールドは企業の軍用規格。下層のジャンクハッカーの出力では、その防御壁に傷一つ付けることすらできない。
「クソッ……アクセスが弾かれる! シールドの周波数が高すぎて、私のデッキじゃ同調できない!」
「ツムギさん、危ない!」
シンの叫び声が響いた。天井から崩落した巨大なコンクリートの梁が、ツムギの頭上へと落下しようとしていた。ツムギはデッキの操作に没頭するあまり、その回避が遅れる。
「しまっ――」
ツムギが目を見開いたその瞬間、シンが自らの細い身体を投げ出すようにして突進した。彼はジローから仕込まれた身軽さで、ツムギの身体をガレキの落下範囲の外へと全力で突き飛ばした。
ズガァァンッ!
コンクリートの梁が地面に激突し、凄まじい土煙が舞う。ツムギは間一髪で助かったが、突き飛ばしたシンは、落下の衝撃で跳ねた別のガレキに足元をすくわれ、床に転倒してしまった。彼の両脚――金属製のサイバー義肢が、崩落した鉄筋の隙間に挟まり、完全に固定されてしまう。
「くっ……動けない!」
シンが必死に義肢を引っ張るが、数トンのコンクリートに挟まれた金属脚はピクリとも動かない。
そして、その立ち往生したシンの前に、立ち込める煙を切り裂いて、巨大な鋼鉄の怪物が立ちはだかった。ゴズは赤く光る光学センサーをシンの顔に向け、冷酷な合成音を発した。
「まずは、その目障りなガキから処理してやる。超能力も持たぬ、ただの機械の紛い物が」
ゴズは背中の核熱シリンダーから、過熱した蒸気をシューと吹き出させた。彼の右腕の巨大な機械アームが、ゆっくりとシンの頭部に向けて振り上げられる。その拳は、一撃でシンの頭蓋骨を粉砕するに十分な質量を持っていた。
「止めろ……! ゴズ、お前の相手は俺だ!」
朔は床を這い、左手でナイフを抜こうとしたが、身体が言うことを聞かない。サジを喰らったことで脳の許容量が限界に達しているため、無理に能力を使おうとすれば、脳が焼き切れる感覚がして意識が飛びかける。
「師匠……ツムギさんを、連れて、逃げて……!」
シンは恐怖に顔を歪めながらも、朔を見つめ、健気に叫んだ。十四歳の少年の瞳には、死の恐怖と、それでも師の役に立ちたいという強い意志が混ざり合っていた。
ゴズの機械アームが、無慈悲な速度で振り下ろされる。
「行かせないッ!!」
シンは最後の力を振り絞り、自身の右脚のサイバー義肢をゴズの機械アームに向けて突き出した。超能力を持たない少年が、命を賭けて放った、ただの物理的な抵抗だった。
しかし、ゴズの圧倒的な物理火力と軍用サイバネティクスの前には、その抵抗はあまりにも無力で、残酷な結果を招くだけだった。
ゴズの巨大な機械アームが、シンの右脚のサイバー義肢を正面から容赦なく掴み取った。超振動の衝撃波が、シンの金属脚の接合部を直撃する。
ギチギチギチギチッ!!!
耳を劈くような金属の摩擦音と、ボルトが引きちぎれる悲鳴が室内に響き渡った。ゴズの鋼鉄の指が、シンのサイバー義肢の装甲を容易くへし折り、内部の精密なギアやアクチュエーターを容赦なく握り潰していく。
「あ、あああああああァァァッッ!!!!!」
シンの喉から、引き裂かれるような悲痛な絶叫が上がった。義肢の神経リンクを通じて、少年の脳に「肉体を引きちぎられる」のと同等の、凄まじい電気的激痛が直接フィードバックされたのだ。
バチバチバチッ!!!
完全に破壊された義肢のジョイントから、青白い激しい火花が暗闇の中に吹き荒れ、引き裂かれた配線が生き物のようにのたうち回る。シンの身体は激痛によるショックで硬直した。
ゴズは冷酷な光学センサーを光らせたまま、潰したシンの脚をさらに捻り上げ、彼を完全に沈黙させるための最後の一撃を振り下ろそうとしていた。
半壊した探偵事務所の暗闇の中、飛び散る青白い火花が、床に這いつくばる朔の顔を照らし出す。
朔の残された左目の瞳孔が、極限の「黒い怒り」によって、底知れぬ深淵のように染まっていった――。
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