脳内牢獄の看守と冷たい雨
黒雨街の夜は、常に不浄な雨に濡れている。上層都市「スカイ・ヘイヴン」から降り注ぐ酸性の排水は、幾重ものネオンの光を反射して、ドブ川のような濁った極彩色をアスファルトの上に描き出していた。
「がはっ……、ゴホッ……!」
雑居ビルの非常階段を這い上がる九条朔の口から、どす黒い血が吐き出された。左手の掌に受けたサジの毒針による貫通傷は、引きちぎったシャツの切れ端で応急処置を施したものの、未だに脈打つような激痛を放っている。だが、それ以上に朔を苛んでいたのは、右腕の異常だった。
すり切れた灰色のトレンチコートの右袖は結晶化の棘によって無残に裂け、剥き出しになった右腕は、肘の上まで完全に漆黒の生体結晶へと変異していた。光を一切反射しないその「ガラスの皮膚」は、冷たい石のように凝固し、物理的な触覚を完全に失っている。右手の指を曲げようとしても、まるで他人の肉体を遠隔操作しているかのように、鈍いフィードバックが脳に返ってくるだけだった。
そして、何よりも耐え難いのは、脳髄を内側から鋸で挽かれるような精神の不協和音だった。
「ひはははは! 喰らったな、探偵さん! 俺の毒がお前の脳を溶かすぞ!」
脳内の暗闇から、さきほど喰らい尽くしたはずのサジの残虐な嗤い声が、直接鼓膜を揺らす。それに対抗するように、朔の最初の犠牲者であり、唯一の親友であった織田蓮の悲痛な絶叫が、ノイズ混じりのサイレンのように鳴り響いていた。二つの相反する精神エネルギーが朔の言語野をジャックし、彼の自我の境界を乱暴に削り取っていく。
「う、あ、あああああッ!」
屋上の鉄扉を左肩で押し開け、朔は「九条ビルの屋上」へと転がり出た。叩きつけるような黒い酸性雨が、熱を帯びた彼の顔面を容赦なく打ち据える。朔はコンクリートの床に両膝を突き、泥水の中に這いつくばりながら、狂気から逃れるように頭を抱え込んだ。
脳内汚染はすでに「フェーズ2「多重人格化」」の領域に達していた。喰らったサジの人格――他者をじわじわと毒殺することに至上の悦びを感じていた男の残虐な衝動が、朔の運動神経へと侵入し始める。
『ほら、その左手で自分の喉を掻きむしれよ。もっと深く、肉が裂けるまで。それとも、残された左目をそのナイフで抉り出すか?』
サジの囁きに同期するように、朔の左手が意思に反して動き出した。包帯代わりの布が血に染まった左手が、ゆっくりと自身の喉元へと伸びていく。指先が皮膚に触れ、鋭い爪が肉に食い込みかけた。
(止めろ……! 俺の身体だ、勝手に動かすな……!)
朔は必死に理性を絞り出し、自身の思考に対して「嘘の色彩視覚(カラー・オブ・ライズ)」を起動しようと試みた。サジの命令が「嘘」であることを色彩として暴き、その支配を拒絶しようとしたのだ。しかし、自己と他者の精神の境界線が泥濘のように混ざり合っている現在、視界に広がるのは、濁った黄色と毒々しい赤色がぐちゃぐちゃに混ざり合った、吐き気を催すような精神の泥水だけだった。自力での統制は不可能。朔の左手は、じわじわと喉笛を圧迫し始める。
『無駄だよ、探偵さん。お前の脳はもう俺の特等席だ。一緒に地獄へ落ちようぜ!』
意識が急速に遠のき、世界がモノクロに染まりかけたその時。朔の脳内の深淵、漆黒の闇に包まれた領域から、冷徹で理知的な一筋の光が差し込んだ。
「――おい、サク。探偵の論理に、自傷行為なんて無駄なプロセスは含まれていないはずだぞ」
その声は、青いデジタルノイズを伴いながらも、確かな質量を持って響いた。朔の脳内に構築された看守――「織田 蓮(オダ・レン)の幻影」の覚醒だった。
朔の精神世界において、蓮の半透明な姿が実体化する。彼は生前と同じ、仕立ての良い黒いトレンチコートを羽織り、眼鏡の奥の瞳で冷酷にサジの人格を見据えていた。蓮がその右手をかざすと、朔の脳内深層に、漆黒のガラスでできた巨大な檻が急速に形成されていく。「脳内牢獄(マインド・セクター)の構築」である。
「な、何だこれは!? 離せ、探偵の亡霊め!」
サジの絶叫が響くが、蓮の構築した「檻」は容赦なくサジの精神体を包み込み、鉄格子の中へと引きずり込んだ。サジは檻の格子に掴まり、それをへし折ろうと「水分毒化」の毒霧を精神世界に放出しようとする。だが、蓮は冷徹に、檻の周囲に幾重もの幾何学的なグリッドを展開した。「「蓮の防壁(ハス・バリア)」の維持」プロトコルの起動だ。
「サジ、お前の言葉はすべてノイズとしてフィルタリングされる。お前はただの、記録されたデータに過ぎない」
蓮の防壁が作動した瞬間、サジの狂暴な叫び声は、ただの静かなデジタル砂嵐の音へと変換され、強制的に消音されていった。檻の強度は増し、サジの人格は鉄格子の奥深くへと完全に幽閉された。
「……蓮、助かった」
精神世界の中で、朔は息を荒らしながら親友の幻影を見上げた。しかし、蓮の姿は先ほどよりも微かに薄くなり、青いノイズの明滅が激しくなっていた。強力なC級能力者であるサジを幽閉するため、蓮の精神エネルギーは著しく摩耗していたのだ。
「礼には及ばないさ、相棒。だが忘れるな、檻の強度は永久じゃない。それに……」
蓮は、朔のトレンチコートの右ポケットを指し示した。
「現実の錨を忘れるな。お前を人間に繋ぎ止めるものを」
ハッと目を開けると、朔は現実の九条ビルの屋上へと引き戻されていた。左手は自身の喉元から離れ、冷たい床に突いている。激しい酸性雨が全身を叩き、体内に溜まったサジの残虐な感情の泥を、洗い流していくのを感じた。朔は激しい雨を全身に浴びる「メンタル・ベント(精神の排気)」を行い、脳内の過熱したニューロンを物理的に冷却していった。
しばらくして、朔はゆっくりと身体を起こした。全身が鉛のように重い。右腕は完全に肘の上まで結晶化し、感覚は全く戻らない。さらに、脳への過負荷の代償として、朔の脳裏に一時的な空白が生じていた。
(俺は……誰だ? ここは、どこだ……?)
数秒間の恐ろしい静寂。やがて、冷たい雨の感覚が、彼の脳に理性を呼び戻す。そうだ。俺は九条朔。蓮を殺した犯人を追う、探偵だ。そして、ここから階段を降りれば、俺の「九条探偵事務所」がある。
朔は震える左手をトレンチコートの右ポケットへと滑り込ませた。感覚のない右手では触れることすらできなかった、蓮の形見である「錆びたZippoライター」を取り出す。真鍮の冷たい金属の感触を左手の掌に感じながら、朔は親指でライターの表面に刻まれた探偵事務所のロゴを強く擦った。それが、彼を「人間」の領域に留める、唯一の物理的な錨だった。
雨脚はさらに強まり、ネオンの光を完全に遮断する漆黒の闇が屋上を支配しつつあった。朔はライターを握りしめたまま、非常階段の扉へとゆっくりと歩みを進める。
だが、彼は気づいていなかった。
探偵事務所が入るビルの錆びついた外壁の陰。雨に濡れるドーム型の監視カメラが、生き物のように滑らかに回転し、そのレンズの奥で、不気味な赤い光が明滅しているのを。
赤い光は、雨の中に佇む朔の背中を、静かにロックした。
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