中央市場の毒霧と死者の視界
「ぐ、ああああああッ……!」
ネオ・シンジュクの最底辺、黒雨街の澱んだ路地裏。泥水にまみれて倒れた黒蛇会のヤクザの額に、九条朔の右手が触れた瞬間、脳内を凄まじい稲妻が駆け抜けた。
魂の深淵に浮かぶ「魂喰らいの黒吸鏡(コクキュウキョウ)」が狂おしく回転し、男の脳から「記憶」と「生命力」を強引に吸い上げていく。青白い光の霧となって朔の右腕へと流れ込むそれは、男がこれまでに犯してきた暴力の記憶、そして黒蛇会の幹部「蛇の眼のサジ」に関する極秘の取引情報だった。
脳が焼けるような熱量と、他者の人生を強奪する悍ましい恍惚感。朔は激しく咳き込み、泥水の中に膝を突いた。右腕の結晶化がさらに一センチほど上へと侵食し、手首の境界線を完全に超えて前腕へとガラスの鱗のように広がっていく。トレンチコートの裂けた袖口から、結晶化した皮膚が放つ漆黒の微光が雨の中に漏れ出していた。
「サク兄ちゃん……!」
ハルが怯えた声で朔の背中に呼びかける。サキもまた、呼吸を忘れたように朔の異形の右腕を見つめていた。
「……行け」
朔は感覚のない右腕を無理やりポケットにねじ込み、掠れた声で絞り出した。
「ツムギのところへ。この路地を出て、南のジャンク街にある『ネオン・ジャンクション』だ。あいつにこのブローチを見せれば、お前たちを保護する」
ハルは泥に汚れた猫のブローチを細い両手で固く握りしめ、何度も頷いた。サキがハルの手を引き、雨の中を走り去っていく。彼女たちの足音が遠ざかるのを見届けた後、朔はインカムに触れた。
「ツムギ、聞こえるか。今、ヤクザから記憶を『喰った』。今夜、中央市場の廃倉庫区画で、サジが大規模なドラッグ『オーバー・フロー』の取引を行う」
「サク、あんたまた無茶をして……!」
インカムの向こうで、ツムギの焦燥に満ちた声が響く。
「右腕の結晶化がまた進んだんでしょ? 鏡花先生の診療所に戻るべきよ。サジは黒蛇会の知略派。ただのヤクザとは格が違うわ」
「時間がない。アンプルの残りはあと三本だ。サジを叩き、変異苔のルートを奪う。それしか俺が生き残る道はない」
朔は冷たく言い放ち、ヤクザの死体を路地の闇へと蹴り飛ばした。彼を突き動かしているのは、脳内で鳴り響く親友・蓮の「ハルを守れ」という絶叫と、失われた己の過去を取り戻すという飢餓感だけだった。
雨はさらに激しさを増していた。ネオンの濁った光が水たまりに反射する中、朔はフードを深く被り、黒雨街中央市場へと向かった。
***
黒雨街中央市場は、下層で最も猥雑で危険なエネルギーに満ちた闇市場だ。違法なサイバーウェア、出所の怪しい薬品、合成肉の腐臭、そして酸性雨の熱気。数万人の下層民がひしめき合うその巨大なドーム状の市場の片隅に、問題の廃倉庫区画はあった。
ネオンの光が届かない、錆びついた鉄扉。朔は「影の潜行(シャドウ・ステップ)」を極小出力で発動し、周囲のゴミ溜めが作る濃い影と同化しながら、音もなく内部へと侵入した。
だが、倉庫の内部に入った瞬間、朔の全身の毛穴が直感的な危機感で逆立った。
静寂。そこにはドラッグの取引を行う構成員も、バイヤーの姿もなかった。ただ、古びた木箱が乱雑に積まれているだけ。床には、ネオンの光を反射する不自然なほど澄んだ水たまりが広がっている。
「もぬけの殻……? いや、違う。サク、そこは――」
ツムギの警告がインカムから響いた瞬間、頭上の錆びついた配管から、不気味な「シュー」という排気音が響き渡った。
配管の亀裂から噴き出したのは、微かに紫がかった、甘く金属質な臭いを放つ霧だった。それは瞬く間に倉庫全体へと広がり、床の水たまりと反応して急速に濃度を増していく。
「――『有毒結界』。空気中の水分を、即効性の神経毒に変えるサイキック能力よ! サジの仕掛けた罠だわ!」
「くっ……!」
朔は咄嗟にトレンチコートの襟を引き上げ、口元を覆った。しかし、その毒気は皮膚の微細な隙間からも侵入し、肺を内側から焼くような激しい窒息感となって彼を襲った。
「ゴホッ……がはっ!」
喉の奥からせり上がる、どす黒い血。全身の運動神経が急速に凍りついていくように麻痺し、指先ひとつ動かすことが困難になっていく。足元の影を伸ばして霧を吹き飛ばそうと「影の触手」を周囲に振り回したが、質量を持たない気体に対して、影の物理攻撃は空しく空を切るだけだった。無駄に体力を消耗し、呼吸がさらに荒くなる。
「無駄だよ、探偵さん」
霧の奥から、歪んだ拡声器を通したような声が響いた。冷徹で、爬虫類を思わせる粘り気のある声――「蛇の眼のサジ」だ。
「君が影を操る死神だという噂は、疾うに耳に入っている。影の盾がどれほど強固だろうと、吸い込む空気まで遮断することはできない。この結界の中では、呼吸すること自体が君の死を確定させる」
シュッ――!
霧の奥から、無数の細い光線が朔を狙って放たれた。サジの放つ「毒針」だ。朔は左手をかざし、泥水から「影の盾(シャドウ・シールド)」を立ち上げて物理的な盾を形成した。しかし、右腕の物理的触覚を完全に失っているため、盾を展開する空間の座標認識が僅かに狂う。防壁の僅かな隙間を、一本の毒針がすり抜けた。
「ぐっ……!」
毒針が朔の脇腹を浅く切り裂いた。毒の麻痺が、全身の神経をさらに激しくショートさせていく。脳内の「精神の檻」の強度が低下し、これまで喰らってきた犯罪者たちの絶叫と、サジの冷酷な嘲笑が不協和音となって頭蓋骨の内側を激しく打ち鳴らした。
(俺は……ここで終わるのか? 蓮の仇も討てず、自分が何者かも知らぬまま……)
視界が歪み、世界がモノクロへと反転し始める。膝から崩れ落ちた朔のすぐ傍らに、毒霧に巻かれて絶命したと思われる、黒蛇会の構成員の死体が転がっていた。男の皮膚はすでに青紫色に変色し、目を見開いたまま絶望の表情で固まっている。
絶体絶命の霧の中、朔は残された最後の力を振り絞り、感覚のない結晶化した右腕を伸ばした。その漆黒の指先が、死体の側頭部へと触れる。
(プロファイリング・サイキック、起動……!)
朔の左目が、漆黒の深淵へと染まった。死者の脳波と朔の精神波が強制的に同期し、世界の時間が逆行していく。モノクロの視界の中に、この死者が絶命する直前の「最期の数分間」の光景が、半透明のホログラムとなって超高速で再生され始めた。
死者の視界が捉えていたのは、この倉庫の構造、そして霧が散布される直前の、ある『矛盾』だった。
サジが毒霧を散布する際、彼自身もこの狭い倉庫の中にいた。ならば、なぜサジ自身は毒に侵されずに済んでいるのか?
死者の記憶の中で、サジはある特定の場所から一歩も動いていなかった。そこは、天井の巨大な換気扇の制御盤の裏。その場所だけは、上層からの乾いた排気が常に吹き下ろす「風上」であり、毒霧の濃度が最も薄い安全区域(セーフゾーン)だったのだ。
死者の脳内から再生された最期の視界。ノイズ混じりの映像が、徐々に焦点を結んでいく。
そこには、毒霧の発生源を指し示す、換気扇の隙間から漏れる「ある特定のネオン看板」の影が、はっきりと映し出されていた。
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