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裏路地の捕食者とスラムの少女

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雨は、この街の汚れた血液だ。


極東ネオ・シンジュクの最下層「黒雨街」。上層「ネオン・アーク」から滴り落ちる排水は、重金属と合成オイルの微かな臭いを孕みながら、錆びついたトタン屋根を絶え間なく叩き続けている。酸性雨に濡れた極彩色のホログラム広告が泥水に反射し、歪んだ光の渦を描いていた。


九条朔は、すり切れた灰色のトレンチコートの襟を立て、ビニール傘を差しながら、迷路のように入り組んだ「黒雨街第3区・スラム住宅街」の細い路地を歩いていた。


左手で傘の柄を握る。右手はコートのポケットの奥深くに突っ込まれたままだ。神崎鏡花による闇手術から数時間が経過していたが、肘まで完全に漆黒の結晶と化した右腕は、いまだに冷たい沈黙を保っている。指先を動かそうとしても、そこにあるはずの神経がガラスの彫刻に置き換わったかのように、何のフィードバックも返ってこない。ただ、ポケットの中で触れている錆びた真鍮のライターの冷たさすら感じ取れないという事実だけが、朔の胸に「人間を失いつつある」という冷徹な恐怖を刻み込んでいた。


(アンプルの残りは、あと三本……)


鏡花から手渡された金属ケースの重みを思い出す。脳細胞のガラス化を抑える「マインド・アサイラム」が切れれば、待っているのは生きた結晶の塊としての死だ。その原材料である『変異苔』の流通ルートを握るのが、黒雨街を支配する武闘派極道「黒蛇会」。


「サク、聞こえる? その区画の奥よ。黒蛇会の末端たちが、違法薬物『オーバー・フロー』の売掛金を回収するために、スラムの住人を脅迫しているっていう情報が入ったわ」


耳元に仕込まれた骨伝導インカムから、相棒の情報屋・ツムギの乾いた声が響く。彼女はジャンクショップ「ネオン・ジャンクション」の裏部屋から、スラムの監視カメラをハッキングして朔をサポートしていた。


「ああ、聞こえている。だが、ただの取り立てなら俺の仕事じゃない」


「ただの取り立てじゃないわ。黒蛇会は最近、薬物の債務者を『生体電池』として企業の実験施設へ売り飛ばしているの。……それに、現場にいるのは、あんたもよく知っている姉妹よ」


ツムギの声に、微かな緊張が混じる。朔は足を止めた。泥水に滴る酸性雨の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。


「ハルと、サキか」


「そう。急いだ方がいいわ。奴ら、完全に容赦する気がないみたいだから」


朔は小さく息を吐き、左手で傘を握り直すと、さらに薄暗い路地の奥へと歩を進めた。トタンの壁が倒れかかり、有毒な排水が頭上から垂れ流されるスラムの深部。そこは光が届かず、ネオンの影が最も濃く沈む場所だった。


「おい、待てよ! 頼むから、ハルだけは連れて行かないでくれ!」


悲痛な叫び声が、激しい雨音を切り裂いて響いた。


狭い行き止まりの路地裏。トタン板を不規則に継ぎはぎした粗末な家屋の前で、サキが泥水に膝を突きながら、男の足元に縋り付いていた。彼女の派手なピンク色の髪は雨で濡れそべり、露出の多いドレスは泥に汚れている。その背後で、オーバーサイズの黄色いパーカーを着た十二歳ほどの少女――ハルが、恐怖に身体を震わせながら姉の背中に隠れていた。


サキたちの前に立ち塞がっているのは、黒蛇会のバッジを胸元に光らせた三人のヤクザだった。中央に立つ男は、手にした鉄パイプを乱暴に肩に担ぎ、サキを見下ろして卑俗な笑みを浮かべている。


「うるせえよ、サキ。お前が『オーバー・フロー』の代金を払えねえのが悪いんだろ。売人のサジの兄貴からの命令だ。カタとして、そのガキをヘリオス社の監視塔へ納品する。微弱でもサイキックの素質があるガキは、生体電池としていい値段で売れるんだよ」


「そんな……ハルはまだ子供よ! 私が、私がもっと働くから!」


「夜のクラブで這いつくばったところで、数万クレジットの薬代が稼げるわけねえだろ」


ヤクザの一人がサキを冷酷に蹴り飛ばした。泥水の中に倒れ込むサキ。ハルが悲鳴を上げて駆け寄ろうとしたが、別のヤクザがその細い腕を乱暴に掴み上げた。


「来い、ガキ。お前の脳髄液が、上層のきらびやかな人工太陽を輝かせる燃料になるんだ。光栄に思え」


「嫌っ! サキ姉ちゃん! サク兄ちゃん、助けて……!」


ハルは激しく暴れながら、小さな手である「物」を必死に抱きしめていた。それは、泥にまみれた、安物の猫のブローチだった。


その瞬間、朔の脳内で、凄まじいハウリングのようなノイズが弾けた。


『サク……! ハルを……あの子を守ってくれ! 俺が……俺が死んでも、あの子の笑顔だけは――!』


脳内の深層に幽閉されていた親友・織田蓮の幻影が、かつてないほどの激しさで咆哮した。蓮の残留思念が朔のニューロンを激しく揺さぶり、錆びたライターを握るイメージが脳裏をよぎる。ハルが抱きしめているブローチは、かつて蓮が生前、最初の事件を解決した記念に彼女にプレゼントしたものだった。


朔の残された左目の瞳孔が、極限の怒りによって漆黒に染まる。無気力を装っていた三流探偵の仮面が、冷酷な死神の素顔へと剥ぎ取られていく。


朔は無言のまま、傘を差したまま路地裏の闇から姿を現した。


「誰だ、てめえは」


鉄パイプを担いだヤクザが、不機嫌そうに朔を睨みつける。朔は「嘘の色彩視覚(カラー・オブ・ライズ)」を起動した。ヤクザたちの周囲の空気が、濁った「黄色い嘘」と、むき出しの「血のような赤色(敵意)」に染まって見える。彼らに交渉の余地はない。最初から、姉妹を使い潰す気だ。


「探偵だよ。迷子の猫を探しに来た」


朔は冷淡に言い放ち、左手で差していた傘を静かに地面へと落とした。激しい雨が、彼の乱れた黒髪を濡らしていく。


「あァ? 探偵だと? 黒蛇会のシマで何寝ぼけたこと言ってやがる。おい、片付けろ」


中央の男が顎で指示を出すと、ハルを掴んでいた大柄なヤクザが一歩前に出た。その男の呼吸が荒くなり、アドレナリンの分泌とともに、全身の筋肉が異様に膨張し始める。「D級(身体強化・ストリートレベル)」のサイキック能力の起動。皮膚の下の血管が黒く浮き上がり、雨を弾くほどの熱量が男の肉体から放たれた。


「死ね、三流探偵が!」


強化された怪力で振り下ろされる鉄パイプ。コンクリートを粉砕するほどの物理的な一撃が、朔の頭部を捉える――コンマ一秒前。


朔は「影の潜行(シャドウ・ステップ)」を発動した。彼の物理的な肉体が、一瞬にして足元の雨水が作った漆黒の影へと沈み込み、半透明の波形となって消える。鉄パイプは虚空を切り裂き、地面の泥水を激しく撥ね上げただけだった。


「なっ……消えた!?」


驚愕するヤクザの背後、雨の光を遮るトタン壁の濃い影から、朔が音もなく実体化した。雨で濡れた地面は、街灯のネオンを反射して「影の等価交換ルール」に最適な、深く濃い暗闇を路地裏に提供している。


「影の触手(シャドウ・テンタクル)」


朔の足元から、光を一切反射しない漆黒の鋭い触手が数本、生き物のように這い出した。触手は蛇のようにうねりながら、身体強化のヤクザの足元へ伸び、彼の両足を容赦なく絡め取る。そのまま、影の硬度を鉄板以上に引き上げ、男の巨体を路地の壁へと叩きつけた。


「がはっ……!」


壁に激突した男が泥水に崩れ落ちる。それを見た残りの二人が、恐怖に顔を歪めながらコートの懐から自動拳銃を引き抜いた。


「この、化け物がッ!」


銃口が朔に向けられ、轟音とともに複数の弾丸が放たれる。しかし、朔はすでに左手を前方に突き出していた。


「影の盾(シャドウ・シールド)」


朔の前面の影が急速に立ち上がり、幾何学的な結晶パターンを持つ漆黒の防壁を形成した。放たれた弾丸は、影の盾の内部に吸い込まれるようにしてその運動エネルギーを完全に吸収され、ペチャンコに潰れた鉛の塊となって地面に落ちていく。さらに、朔が盾の硬度を極限まで高めて弾き返した衝撃波が、銃を撃った二人のヤクザの胸元を直撃した。


「ぎゃああっ!」


二人は銃を吹き飛ばされ、ゴミの山へと激しく叩きつけられて沈黙した。路地裏に、再び激しい雨の音だけが戻ってくる。


「はぁ、はぁ……っ」


朔は膝を突きかけ、左手で激しく胸元を押さえた。影の能力を連続で使用した代償が、彼の肉体を内側から蝕んでいく。右腕の結晶化が、手首の上からさらに一センチほど這い上がり、漆黒のガラスの棘が皮膚を突き破って熱い痛みを放っていた。トレンチコートの右袖が結晶の成長によって微かに裂け、青い人工血液が雨水に混ざって流れていく。


「サク兄ちゃん……?」


ハルが怯えながらも、泥まみれのブローチを抱きしめたまま朔を見つめていた。サキもまた、呼吸を忘れたように朔の「怪物」としての姿を凝視している。


朔は何も言わず、泥水の中に倒れて呻いているD級のヤクザへと、ゆっくりと近づいていった。その足取りは重く、死神のように冷徹だった。


朔がヤクザを見下ろした、その瞬間だった。


ポケットの奥深く、感覚を失っているはずの朔の右手が、不気味に脈打ち始めた。魂の最深部に浮かぶ「魂喰らいの黒吸鏡(コクキュウキョウ)」が、狂暴な速度で回転を開始する。新たな「喰らう」衝動――他者の記憶と能力を貪り食う、底知れぬ飢餓感が朔の脳内を支配していく。


(喰らえ……。こいつの脳を喰らって、その力を我がものとせよ……)


影から囁く複数の死者たちの声。朔の右手の黒い生体結晶が、まるで磁石に引き寄せられるかのように、半気絶状態のヤクザの額へと吸い寄せられていく。朔の左目の瞳孔が、狂気と恍惚の光に細められた。

HẾT CHƯƠNG

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