青き薬液と冷徹なる調律師
「がっ……あ、はぁ、はぁ……ッ!」
雑居ビルの三階、九条探偵事務所の冷たい空気のなかで、朔はスチール机に両手をついたまま激しく悶絶していた。トレンチコートの右ポケットの奥で、真鍮のライターを握りしめる指先が引き攣る。だが、もはやその程度の「錨」では、右腕を駆け上がる破壊的な熱量を抑え込むことはできなかった。
「サク、しっかりしなさい! 嘘でしょ、もう限界が来てるじゃない!」
ツムギの鋭い悲鳴が、遠く霞む意識の向こうで響く。朔の右腕は、手首を超え、肘のすぐ手前にまで漆黒の生体結晶に侵食されていた。皮膚を引き裂いて突き出すガラス質の棘が、ドクドクと脈打つたびに、光を吸い込むような不気味な黒い光を放っている。それは凍傷などという生易しいものではない。肉体が内側から結晶へと変質していく、人としての死の始まりだった。
脳内では、喰らったばかりの親友・蓮の最期の絶叫が、ハウリングを起こしたスピーカーのように頭蓋を揺らし続けている。
『サク……黒崎が……奴が、俺の脳を――』
(黙れ、静まり返れ……!)
朔は必死に瞑想を試み、脳内に溜まった他者の狂気や残虐性を外部へ放出する「メンタル・ベント」を行おうとした。呼吸を整え、脳内のノイズを雨の音と同調させて排出しようとする。しかし、すでに彼の脳は「影狼」のソウルを喰らったことによる過負荷で満杯だった。スレッドの許容量を超えた精神波が逆流し、喉の奥から鉄の味がせり上がる。
「ごふっ……!」
朔の口から、どす黒い血がスチール机の上へ吐き散らされた。視界が急速に色を失い、モノクロームの闇へと沈んでいく。膝が砕け、床へ崩れ落ちる朔の身体を、ツムギがその華奢な肩で必死に支えた。
「意地張ってんじゃないわよ、このバカ探偵……! 今すぐ鏡花先生のところへ行くわよ。肩を貸すから、立ちなさい!」
ツムギの身体から、焦りと自責が混ざり合った「濁った黄色と青色」の霧が立ち上る。朔はかすむ左目でそれを見つめながら、彼女に引きずられるようにして、豪雨が吹き荒れる黒雨街の夜へと這い出した。
有毒な廃棄物の臭いが立ち込めるドブ川を越え、ネオンの光が泥水に反射する裏路地を抜ける。徒歩でわずか五分のはずの距離が、死への行進のように長く感じられた。辿り着いたのは、完全に廃墟と化した地下駐車場の入り口だった。錆びついたシャッターの脇にある、ひび割れたコンクリートの壁。ツムギが慣れた手つきで隠しパネルの暗証コードを入力すると、網膜スキャナーが青い光を放ち、重厚な鋼鉄の扉が静かにスライドした。
そこが、黒雨街で唯一、朔の肉体を「調律」できる場所――神崎闇診療所だった。
扉の向こうに広がっていたのは、最先端の医療機器と、退廃的なスラムの闇が融合した奇妙な空間だった。手術台を取り囲むように並ぶ、ホルマリン漬けのサイキック脳が収められたガラス瓶。空気中には、鼻を刺す消毒液の臭いと、高圧電流が放つオゾン臭が充満している。
「鏡花先生! サクが、もう――」
ツムギが叫ぶと同時に、診療所の奥から一人の青年が飛び出してきた。鏡花の助手であるカジだ。両腕を精密作業用の金属製義手に換装した無口な青年は、朔の右腕から放たれる黒い光を見た瞬間、表情を険しくした。
「下がれ、ツムギ。被検体の脳波が暴走している。これ以上近づけば巻き込まれるぞ」
カジが朔を拘束しようと手を伸ばした、その瞬間だった。
「触るな……ッ!」
朔の防衛本能が、彼の意志を無視して「影狼」の力を暴走させた。足元の影が泥のように膨張し、鋭い漆黒の触手となって周囲へと突き出されたのだ。触手はカジの義手を弾き飛ばし、近くの棚に並んでいたガラスの薬瓶を次々と粉砕した。ガシャーンとけたたましい音が響き、青や黄色の違法薬液が床に飛び散る。
「静かにしなさい、暴れ馬」
その冷徹な声は、診療所の最奥から響いた。
白衣を羽織り、乱れた黒髪を無造作に束ねた女性――神崎鏡花が、ゆっくりと歩み出てきた。目の下に濃い隈を刻んだクールな三十代の瞳には、一切の動揺がなかった。彼女は即座に壁のスイッチを押し、診療所内に超高周波の精神安定波(ホワイトノイズ)を流した。
キィィィィン――という鼓膜を突き刺すような不可聴音が室内に満ちる。朔の脳波はその高周波ノイズによって強制的にシャットダウンされ、暴れていた影の触手が一瞬にして霧散した。朔の身体から力が抜け、手術台の上へと倒れ込む。
鏡花は迷いのない足取りで近づくと、冷たい金属製のメスを朔の額に突きつけた。メスの先端が皮膚をわずかに押し沈め、冷酷なまでに鋭い彼女の瞳が朔を見下ろす。
「脳波の異常活性、右腕のアストラル結晶化率、四二パーセント。完全に限界値を超えているわね。カジ、彼を手術台に固定しなさい。暴れられたら、脳幹への穿刺がズレるわ」
「了解」
カジが素早い動作で朔の両手両足を革製の拘束ベルトで手術台に固定する。朔は激しい息を吐きながら、天井の無機質な無影灯を見つめるしかなかった。結晶の侵食はすでに肘に達しようとしており、激しい熱傷のような痛みが全身の神経を焼き尽くしている。
鏡花は手際よく、青く発光する蛍光液が満たされたシリンダー――「マインド・アサイラム・アンプル」を注射器にセットした。青い光が、彼女の冷徹な横顔を妖しく照らし出す。
「サク、これからあなたの首の後ろ、脳幹に直接この抑制剤を注入する。麻酔は使えないわ。脳波を眠らせたら、結晶化のエネルギーを相殺するあなたの『意志』まで消えてしまうから。……耐えなさい」
鏡花は朔の頭部を強引にうつ伏せにさせ、首の後ろの生肌を露出させた。冷たいアルコール綿の感触が通り過ぎた直後、氷のような針先が皮膚に触れる。
「結晶の明滅パターンから、脳内の多重人格の活動電位を計算したわ。……穿刺する」
「――ッ!!!!」
言葉にならない絶叫が、朔の喉の奥で弾けた。
太い針が首の後ろの肉を貫き、脳幹へと直接突き刺さる。その瞬間、朔の脳内で、宇宙が爆発したかのような激痛が走った。ニューロンが一本残らず沸騰したガソリンで焼き切られるような、凄まじい熱。脳内の檻に幽閉されていたサジや黒崎の人格が、その痛みに共鳴して一斉に絶叫し、頭蓋骨を内側からノミで叩き割るような感覚が朔を襲う。
だが、痛みが極限に達した直後、今度は絶対的な「冷気」が脳の奥から広がっていった。
マインド・アサイラムの青き薬液が脳幹を満たし、暴走していた脳波を急速に冷却していく。熱を帯びて明滅していた右腕の漆黒の結晶が、静まり返り、ガラスの軋むような音が止んだ。朔は大きく口を開け、まるで溺れていた者が水面に顔を出したかのように、激しく空気を吸い込んだ。全身が冷たい汗で濡れている。
鏡花は注射器を引き抜くと、朔の拘束ベルトを外した。彼女は冷酷な手際で、朔の結晶化した右腕の境界線にメスを入れ、壊死しかけていた皮膚組織を躊躇なく切り取っていく。麻酔なしの壊死切除(デブリードマン)。しかし、朔はもう痛みを感じなかった。右腕の物理的な触覚は、すでに完全に消失していたのだ。
「これで一時的には収まったわ。でも、これはただの応急処置に過ぎない」
鏡花は切り取った組織をトレイに放り投げ、血に汚れた手袋を脱いだ。その瞳には、深い哀れみと、隠しきれない冷徹な警告が宿っている。
「あなたの右手の結晶化……これは超能力の過剰使用による負荷なんかじゃない。奪われた神格エネルギーが、あなたの肉体に逆流している現象よ。あなたは敵の記憶と能力を喰らうたびに、失われた『神』としてのシステムに近づいている。そしてそれは――『人間』としての肉体と自我の完全な死を意味するわ」
「人間としての、死……」
朔は感覚のない右手を持ち上げ、虚空にかざした。漆黒のガラスのようになった五指は、ネオンの光を浴びても、ただ光を吸い込むだけだった。
「そう。全身がガラスの彫刻のようになって、あなたの魂はアカシック・システムの一部に還る。神に戻るということは、九条朔という探偵が消滅するということよ。そのジレンマを忘れないことね」
鏡花はそう言うと、机の上に小さな金属製のケースを置いた。中には、青く光るマインド・アサイラムのアンプルが、わずか三本だけ並んでいる。
「薬の残りはこれだけ。原材料となる下水道の『変異苔』は、黒蛇会が密売ルートを握って独占しているわ。これ以上の薬が欲しければ、彼らのルートを叩いて原材料を奪うしかない。……もちろん、今回の治療費は、いつもの契約通りに支払ってもらうわよ」
鏡花はシリンダーを取り出し、朔の結晶化した腕から、青い人工血液が混ざり合ったバイオデータを吸い上げた。彼女が朔を無償で治療するのは、この貴重な「神の結晶データ」を研究材料として回収するため――表向きは、そういう契約だった。
「助かったよ、先生」
朔は皮肉めいた笑みを浮かべ、感覚のない右腕をトレンチコートのポケットへと滑り込ませた。真鍮のライターに触れても、指先からは何の冷たさも伝わってこない。その事実が、彼に人間を失いつつある恐怖を刻み込んでいた。
ツムギが心配そうに朔に駆け寄る。鏡花は次の点滴の準備をするため、朔たちに背を向け、薬品棚に向かってガラス瓶を整理し始めた。
その時だった。
朔は無意識に、視神経に僅かなエネルギーを流した。発動する「嘘の色彩視覚(カラー・オブ・ライズ)」。
点滴の準備をする鏡花の背中を見つめた瞬間、朔の左目の視界が、異様な色彩に染まった。
鏡花の細い肩の周囲から、これまでに見たこともないほど濃厚で、澱んだ「黄色い霧」が立ち上っていた。それは、彼女が朔に対して、魂の根底を揺るがすような「巨大な隠し事」をしていることを示す、偽りの色彩だった。
(先生……あんたは、俺に何を隠している?)
冷たい薬品の臭いのなかで、朔の残された左の瞳が、静かな疑念の光を帯びて細められた。
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