死神の事務所と緑の瞳の相棒
鉛色の雨が、ネオ・シンジュクの最下層「黒雨街」を容赦なく叩いていた。錆びた鉄と化学廃棄物の臭いが混ざり合う、不快な湿気。九条朔(クジョウ・サク)は、すり切れた灰色のトレンチコートの襟を立て、泥濘に足を取られながら歩いていた。
右手の指先は、光を一切反射しない漆黒のガラスのように結晶化し、完全に感覚を失っている。それだけではない。脳の奥深くで、喰らったばかりの親友・蓮(レン)の最期の絶叫が、ハウリングを起こしたスピーカーのように鳴り響いていた。
『サク……逃げろ……! 奴らは、お前を――』
「黙れ……」
朔は低く呻き、こめかみを押さえた。これが他者の魂を喰らった代償、フェーズ1「囁き」の狂気。脳内をかき乱す蓮の幻聴をねじ伏せるように、右ポケットの中で「錆びたZippoライター」を強く握りしめる。真鍮の冷たい感触と、表面に刻まれた探偵事務所のロゴの凹凸だけが、崩壊しかけた彼の理性を現実へと繋ぎ止める唯一の錨だった。
たどり着いたのは、黒雨街の片隅に佇む寂れた雑居ビル。一階の中華料理店は廃業して久しく、割れた窓から冷たい風が吹き込んでいる。朔は軋む階段を三階まで登り、突き当たりにある鉄扉の前に立った。剥げかけたペンキで書かれた「九条探偵事務所」の文字。
そこで、朔は立ち尽くした。
ポケットから取り出した鍵束を見つめるが、どれがこの扉の鍵なのか、どうやって解錠するのか、記憶の引き出しが完全に空っぽだった。記憶喪失。自分が誰なのかすらわからない男が、探偵事務所の鍵を開けられるはずもなかった。
(クソ、どうする……)
脳内の蓮の記憶から、無意識に「影狼」の感覚を呼び起こそうとしたその時、背後から軽い足音が近づいてきた。
「なにしてんのよ、サク。自分の事務所の前で不審者みたいに立ち尽くしちゃって」
背後からかけられた声は、驚くほどドライで、どこか小馬鹿にするような響きを帯びていた。朔が振り返ると、そこにはオーバーサイズのライダースジャケットを羽織った少女が立っていた。緑色のインナーカラーが入った黒髪のボブカット。首元から下げた高性能ポータブルデッキが、彼女の華奢な体躯に不釣り合いな存在感を放っている。情報屋の「ツムギ」だった。
「鍵を失くした。それだけだ」
朔は感情を押し殺した声で答え、右手をトレンチコートのポケットの奥深くへと隠した。結晶化した漆黒の指先を、彼女に見せるわけにはいかない。
ツムギは呆れたようにため息をつくと、ジャケットのポケットから一本の細いヘアピンを取り出した。彼女は朔を押し退けるようにして扉の前に立ち、手慣れた動作で鍵穴にピンを差し込む。カチリ、と小さな金属音が響き、錆びついた鉄扉がゆっくりと内側へ開いた。
「ほら、入りなさいよ。死神みたいな顔して雨に濡れてると、本当に死体と間違えられて回収屋に持っていかれるわよ」
事務所の中は、埃をかぶったレコードプレーヤー、錆びたスチールの机、そして乱雑に積み上げられた古本に囲まれた、昭和レトロな空間だった。窓の外から差し込むネオンの濁った光が、室内の暗闇をかすかに切り裂いている。
朔はスチールの椅子に深く身体を沈めた。室内の冷たい空気とカビの臭いが、奇妙な安らぎを彼に与える。しかし、ツムギは部屋に入るなり、朔の様子を冷徹な目で見つめていた。
「……おかしいわね」
ツムギがゆっくりと歩み寄り、スチール机の端に腰掛けた。彼女の緑色の瞳が、朔の顔、そして頑なにポケットから出そうとしない右腕へと注がれる。
「いつものあんたなら、軽口の一つでも叩き返すはずよ。それに、その右腕……さっきから一度もポケットから出してない。怪我でもしたの?」
「ただの frostbite(凍傷)だ。下層のスクラップ場で液安のパイプが破裂してな」
朔は平然を装って嘘を吐いた。その瞬間、彼の視神経に微弱な神格エネルギーが流れ込み、世界が異様な色彩を帯び始める。朔本来の僅かな知覚能力、「嘘の色彩視覚(カラー・オブ・ライズ)」の起動。
ツムギが口を開いた瞬間に、彼女の口元から吐き出される息が、濁った「黄色い霧」となって空気中に漂うのが見えた。
(嘘だ。彼女は俺の怪我を疑っているだけじゃない。何か別の『真実』を隠している)
「ふーん、凍傷ねえ」
ツムギは目を細め、さらに距離を詰めてきた。彼女の表情は冷ややかだが、その呼吸はわずかに乱れている。朔は脳内にある蓮のプロファイリングロジックを部分的にエミュレートし、自身の感情を完全に殺して彼女の観察に対抗した。呼吸、視線の動き、指先の微細な震え。探偵としての本能が、彼女の焦りを捉える。
「サク、あんた……『記憶喰らい(メモリー・イート)』をやったんじゃないでしょうね?」
ツムギの口から飛び出した禁忌の単語に、朔の心臓が跳ね上がった。他者の脳から記憶と能力を吸い取る行為は、この都市において存在消去に値する大罪。ツムギの周囲の黄色い霧が、さらに濃く渦巻く。彼女は朔がその禁忌を犯したことを薄々察知しながら、あえてそれを確かめるような質問を投げかけているのだ。
「……なんのことだ」
朔は視線を逸らさず、冷徹に答えた。彼の視界で、ツムギの周囲の霧が、今度は「悲痛な青色」と「自責の黄色」に変化していく。嘘の色彩解析アルゴリズムが、彼女の内面を暴き出す。彼女は、蓮の死に対して激しい自責の念を抱いている。蓮が死ぬ原因となった何らかの調査を、彼女自身が依頼したか、あるいは止められなかったのだ。
ツムギはしばらく朔を凝視していたが、やがて降伏するように両手を上げた。
「……まあ、いいわ。あんたが何を隠していようと、今はどうでもいい。それよりも、これを見て」
彼女はライダースジャケットの内ポケットから、一冊の暗号化されたデータフォルダを取り出し、スチール机の上に乱暴に放り投げた。そのすぐ隣に、朔がポケットから取り出した錆びたZippoライターが静かに置かれる。
「蓮が死ぬ直前まで追っていたヤマよ。スラムを支配する極道組織『黒蛇会(コクジャカイ)』が、裏で流している新型の違法ドラッグ『オーバー・フロー(OVER FLOW)』」
「オーバー・フロー……」
「そう。無能力者の脳ニューロンを強制的に活性化させて、一時的に超能力を発現させる粗悪な増幅薬。これを使った人間は、数時間後に脳が焼き切れて廃人になるか、全身が結晶化して死ぬわ。蓮は、このドラッグの密売ルートの頂点にいる奴を突き止めようとして……消された」
ツムギの言葉を聞きながら、朔は左手でフォルダを開いた。そこには、下層の暗闇で撮影された不鮮明な男のホログラム写真と、その経歴が記されていた。
フォルダの最上部、赤いデジタルインクで刻まれた標的名を見た瞬間、朔の頭蓋を凄まじい激痛が突き抜けた。
**【黒蛇会若頭:黒崎(クロサキ)】**
「がっ……あ……!」
朔は絶叫を噛み殺し、机に両手をついた。ポケットの中の右手が、まるで沸騰したお湯を浴びせられたかのように激しく疼き始める。漆黒の生体結晶が、トレンチコートの布地を突き破らんばかりに黒い光を放ち、熱を帯びていく。脳内で、幽閉された蓮の最期の絶叫が、かつてない質量となって暴れ狂う。
『サク……黒崎だ……! 奴が、俺の脳を――』
「サク!? ちょっと、どうしたのよ!」
ツムギが驚愕して立ち上がる。しかし、朔の耳には彼女の声が遠く霞んで聞こえた。黒い雨の音が、窓ガラスを激しく叩く音が強まっていく。右腕の結晶化が急激に熱を帯び、今夜中にこの暴走を止めなければ、彼の肉体は内側から壊死し、完全な結晶の死体へと変わる。復讐の標的の名を前にして、神喰らいの探偵の肉体は、破滅へのカウントダウンを始めていた。
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