蛇の巣へ堕ちる魔弾
湿ったコンクリートの臭いと、錆びた配管から滴る水の音が、地下下水道の隠れ家に重苦しく響いていた。簡易ベッドに横たわるシンの呼吸は浅く、熱に浮かされたように小さく喘いでいる。ゴズの鋼鉄の指に握り潰された右脚のサイバー義肢は、無惨な金属の死骸となってシンの傍らに転がっていた。ちぎれた人工筋肉の繊維が、少年の幼い肉体から奪われた未来の重さを物語っている。
「朔、本当に行くの……?」
ツムギが震える声で朔の背中に問いかけた。彼女の緑色の瞳は、蓮の形見や事務所を失った自責の念、そしてシンを救えなかった悲痛な青色に濁っている。朔は何も答えず、ただ無言で「影の防護トレンチコート」の襟を立てた。右腕は肘の上まで完全に漆黒の結晶と化し、物理的な触覚を失っている。サジの毒針に貫かれた左手の掌は、包帯の下で再び傷口が裂け、どす黒い血が白い布をじわじわと汚していた。折れた肋骨が息をするたびに胸の奥を突き刺し、肺から血の味がせり上がってくる。
(あいつは、俺の弟子を壊した。絶対に、生かしてはおかない)
朔の胸の奥で、底知れぬ漆黒の怒りが静かに、だが狂暴に燃え上がっていた。彼は左腰のホルダーに「特殊タクティカル・ナイフ」が収まっていることを確認し、左手で「錆びたZippoライター」を強く握りしめた。脳内の蓮の幻影は、先ほどのゴズとの死闘による消耗からか、今は静まり返っている。今、彼を突き動かしているのは、神としての記憶ではなく、一人の人間としての、剥き出しの復讐心だけだった。
隠れ家を後にした朔は、激しい豪雨が降り続く黒雨街の夜へと身を投じた。目指すは、スラムの混沌を見下ろすようにそびえ立つ、要塞化された巨大マンション――黒蛇会本部「蛇の巣」。そこは、親友の蓮を拷問の末に殺害した実行犯であり、重力を操る若頭「黒崎」が君臨する、血塗られた牙城だった。
雨水がネオンの光を乱反射する路地裏を抜け、朔は「蛇の巣」の外壁の影へと到達した。見上げる要塞は、無数の監視カメラと武装した組員によって厳重に固められている。普通に近づけば、一瞬で蜂の巣にされるだろう。だが、今の朔には、他者から奪い取った「力」がある。
「影の潜行(シャドウ・ステップ)……」
朔は自身の肉体を一時的に影の波形へと同化させ、建物の影から影へと音もなく滑り込んだ。監視カメラの死角を縫い、一階の搬入口から内部へと侵入する。薄暗い通路を巡回する、二人の黒蛇会組員。朔は足元の影から「影の触手」を伸ばし、彼らの足を絡め取ると同時に、脳内牢獄に幽閉したサジの能力を解放した。
「毒針(サジの水分毒化)……!」
朔は周囲の空気中に漂う湿気、そして組員たちの体表の汗を一瞬にして即効性の神経毒へと変換した。組員たちは悲鳴を上げることすら許されず、喉を掻きむしりながら床へと崩れ落ち、静かに絶命した。冷酷で、一切の無駄がない暗殺。朔は彼らの死体を見下ろすこともせず、最上階の黒崎のオフィスを目指して、血に濡れた階段を静かに登り始めた。
階段を上がるたびに、見張りの組員たちを影と毒のコンボで無音で排除していく。朔のトレンチコートの裾が、彼らの流した血と雨水で重く濡れていく。折れた肋骨の激痛が呼吸を制限し、視界が時折モノクロに染まりかけるが、そのたびにライターの硬い感触が朔の正気を現実に繋ぎ止めていた。ついに、最上階の重厚な二重扉の前に到達する。
朔は左手で扉を静かに押し開けた。広大なオフィスの奥、全面ガラス張りの窓を背にして、一人の男が豪華な革張りの椅子に深く腰掛けていた。黒い高級スーツを纏い、首元に不気味な蛇のタトゥーを刻んだ男――黒蛇会若頭、黒崎。彼は窓の外で激しく叩きつける雨を見つめたまま、侵入者に対して振り返りもしなかった。
「ようやく来たか、ネズミめ。サジとゴズを退けたというから、どんな大層な奴かと思えば……死に損ないの探偵風情が」
黒崎の冷酷な声が、広い室内に響き渡る。その声を聞いた瞬間、朔の脳内で「蓮を救えなかった」という強烈な罪悪感と怒りが爆発した。蓮を拷問し、その脳を抉り出した張本人が、目の前にいる。
「黒崎……!」
朔は一瞬で「影の潜行」を発動し、黒崎の椅子の背後に広がる濃い影へと潜り込んだ。影から実体化すると同時に、左手に構えた超振動ナイフにサジの「毒針」の影を纏わせ、黒崎の首元に向けて一閃した。無音の、そして完璧な奇襲のはずだった。
しかし、黒崎は振り返ることすらしていなかった。彼が指先を微かに動かした瞬間、朔のナイフの刃が黒崎の皮膚に触れる直前で、空間そのものが異様に歪んだ。
「重力偏向」
空間の重力のベクトルが物理的に捻じ曲げられ、ナイフを握る朔の左腕に、横方向からの凄まじい質量圧が叩きつけられた。超振動の刃は黒崎の首を捉えることなく、激しい金属音を立ててオフィスの大理石の床へと物理的に叩き落とされ、深く突き刺さった。質量を持たないはずの影のエネルギーすらも、黒崎の支配する重力歪みによって軌道を曲げられたのだ。
「言ったはずだ。探偵風情が、俺の重力に触れられると思うな」
黒崎がゆっくりと椅子を回転させ、鋭い三白眼で朔を見据えた。彼の首元の蛇のタトゥーが、不気味に蠢いたように見えた。黒崎が右手をゆっくりと掲げる。
「ひれ伏せ。重力プレス……!」
ドゴォォォン!!!
室内の空気が物理的に圧縮され、凄まじい衝撃波が朔の頭上から降り注いだ。朔の周囲数メートルの空間だけ、重力が一瞬にして「十倍」に増幅されたのだ。大気そのものが数トンの鉄板となって朔の全身を押し潰す。
「がはっ……!」
朔の口から、どす黒い血が激しく吹き出した。折れた肋骨が悲鳴を上げてさらに肺を圧迫し、呼吸が完全に停止する。着ていた「影の防護トレンチコート」が、超高圧の重力によって繊維を引き裂かれ、バラバラのボロ布となって床に散らばった。
(動け……動け、俺の身体……!)
朔は必死に足元の影を立ち上げ、「影の盾」を展開して重圧を防ごうとした。しかし、重力は影の盾を何もないかのように透過し、朔の肉体に直接作用する。盾ごと地面に押し潰され、防御は完全に無効化された。
朔は咄嗟に、ブーツの踵を強く踏み込んだ。ジローが開発した「携帯型重力アンカー装置」の起動。足裏から数トンの仮想質量を発生させ、地面に肉体を固定することで、重力プレスに抗おうとしたのだ。一瞬だけ、アンカーの青い光が走り、朔の身体が固定されたように見えた。
だが、黒崎の重力出力は、アンカーの限界を遥かに超えていた。
「無駄な玩具だな」
黒崎がさらに指を沈めると、アンカーの基盤が激しい火花を散らして一瞬でショートし、爆発した。それと同時に、朔が立っていた大理石の床コンクリートが、凄まじい重圧に耐えかねて蜘蛛の巣状に割れ、一気に陥没した。アンカーごと地面が崩れ落ち、朔の両膝の骨が、鈍い音を立てて亜脱臼した。激しい関節の軋みと痛みが朔の脳を直撃する。
「あ、 があぁぁぁぁっ……!」
朔は床に這いつくばり、完全に動きを封じられた。右腕の漆黒の結晶組織が、黒崎の放つ重力の歪みと共鳴し、ピキピキと不気味な音を立てて細かくひび割れていく。結晶の隙間から、青い人工血液が混ざり合った血が床に滴り落ち、大理石を汚していく。物理的な触覚を失ったはずの右腕から、脳を焼き切るような激しい神経痛が逆流していた。脳内では、サジの狂暴な嗤い声と、蓮の悲痛な絶叫が再び暴れ狂い、朔の脳波は「フェーズ3:自我の境界喪失」の暴走の閾値を激しく叩き始めていた。
視界が赤く染まり、意識が遠のいていく。指一本動かすことすらできない。圧倒的な、絶対的な力の差だった。重力に押し潰された泥濘の中で、朔はただ、血を吐きながら黒崎を見上げるしかなかった。
黒崎はゆっくりと立ち上がり、這いつくばる朔の前に歩み寄った。床に刺さったままの超振動ナイフを靴の先で乱暴に蹴り飛ばすと、彼は懐から、鈍い光を放つ黒いリボルバーを引き抜いた。
カチャリ、と冷酷な金属音が静まり返った室内に響く。
黒崎は冷たい銃口を、床に伏せる朔の額へと直接、強く押し付けた。銃口の冷たさが、激痛に震える朔の額に、死のリアリティを突きつける。
「お前も、あの探偵(蓮)と同じように、脳を抉り出して売ってやるよ」
黒崎の冷酷な笑みと、引き金にかかる指。朔の残された左目の瞳孔が、極限の恐怖と、底知れぬ怒りの深淵の中で、静かに、だが激しく明滅し始めていた――。
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