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泥濘の目覚めと魂の咆哮

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頬を打つ雨は、ただの冷たい水ではなかった。化学物質の酸っぱい臭いと、錆びた鉄の味が混ざり合う、ネオ・シンジュクの毒雨。泥濘の中に顔を半分うずめた状態で、九条朔は目覚めた。窒息寸前の肺が悲鳴を上げ、彼は激しく咳き込みながら上体を起こす。視界は濁った灰色の霧に覆われ、ネオンの残光がかすかに揺れている。ここはドーム都市の最底辺、上層からの廃棄物がすべて流れ込む「廃液の奈落」だった。

「俺は……誰だ?」

自身の名前すら思い出せない。過去の記憶は、まるで鋭い刃物で綺麗に削ぎ落とされたかのように、脳裏から完全に消失していた。頭痛が割れるように激しく、こめかみを押さえた朔の右手が、泥の中で『何か』に触れた。引き寄せられるように視線を落とした瞬間、彼の心臓が凍りつく。

そこに横たわっていたのは、首元を無残に切り裂かれた青年の遺体だった。仕立ての良い黒いトレンチコートは泥と血にまみれ、その顔立ちは、朔の記憶のどこにも存在しないはずなのに、胸を締め付けるような強烈な喪失感を呼び起こす。

「蓮……?」

なぜその名が口から出たのか、朔自身にも分からなかった。だが、その遺体が彼の唯一の親友であり、実質的な家族であった「九条蓮」であることを、魂が理解していた。蓮の頭蓋は一部が破壊され、脳が露出しそうになっている。何者かに「パーツ」として奪われかけた痕跡だった。

重い、金属的な足音が、廃液の泥を跳ね上げて近づいてくる。霧の向こうから現れたのは、黄色い防護服に身を包み、ガスマスクをかぶった不気味な男だった。背中には液体窒素タンクを背負い、その手には冷気を放つ特殊な回収ノズルが握られている。下層の死体から新鮮な脳を抉り出し、中層のメガコーポに密売する「死体回収屋」ハイドだった。

「ほう、まだ息のあるパーツが残っていたか。予定外だが、そっちの脳もなかなかの値で売れそうだ」

ハイドのガスマスクの奥から、機械的に歪められた冷酷な声が響く。彼は容赦なく回収ノズルを朔に向け、液体窒素の冷気スプレーを放った。一瞬にして周囲の泥水が凍りつき、白い霧が牙を剥いて朔に迫る。

「くそっ……!」

記憶のない肉体が、本能的な生存本能だけで動いた。朔は泥の中を必死に転がり、冷気の直撃を回避する。手近に落ちていた錆びた鉄パイプを掴み、ハイドの防護装甲へ向けて全力で殴りかかった。しかし、ハイドは冷酷にノズルを微調整し、鉄パイプに直接冷気を浴びせる。

一瞬にして鉄パイプは白く凍りつき、その極低温は朔の右手にまで伝播した。激しい凍傷の痛みに襲われ、朔は悲鳴を上げてパイプを落とす。凍りついた鉄パイプは地面に激突した衝撃でガラスのように粉々に砕け散った。武器を失い、右手の自由を奪われた朔は、蓮の遺体のすぐ隣へと叩きつけられる。

「無駄な抵抗だ。お前たちの脳は、企業の生体演算ユニットとして生まれ変わる。光栄に思うがいい」

ハイドが冷酷な足取りで近づき、凍結ノズルを朔の額へと突きつけようとする。退路は凍結され、身体は凍傷で動かない。絶体絶命の瞬間、朔の右手が、すぐ隣に横たわる蓮の冷え切った額に触れた。

その瞬間、朔の魂の最深部で、何かが狂暴に目覚めた。

物質としては存在しないはずの、光を一切反射しない漆黒の鏡――「魂喰らいの黒吸鏡(コクキュウキョウ)」が、彼の精神の深淵で静かに回転を始める。それは、かつて彼が神であった頃に、宇宙の調和を記録するために創造した権能の残骸だった。本能が、朔の肉体を突き動かす。

「記憶喰らい(メモリー・イート)」のプロセスが、自動的に起動した。

朔の右手の指先から、青白い、光り輝く記憶の霧が吹き出し、蓮の脳から直接、精神エネルギーを吸い上げ始める。それは他者の魂を貪り食う、自傷行為に等しい禁忌の強奪だった。

「あああああああああッ!」

朔の脳内に、蓮の人生の全記憶が、凄まじい濁流となって直接流れ込んできた。下層での貧しい日々、探偵事務所での温かい時間、そして最期に黒蛇会の男たちに拷問され、脳を抉り取られかけた瞬間の、想像を絶する死の苦痛。それらすべてが、朔の精神を内側から引き裂くように転写される。罪悪感と、魂を喰らう恍惚感が混ざり合う狂気の中で、朔は絶叫した。

だが、その絶望の深淵から、一つの能力が覚醒する。蓮が生前に宿していたB級のサイキック能力「影狼(シャドウ・ウルフ)」のソウルが、朔の影の中に囚われ、彼の支配下に入ったのだ。

「……影が、動く?」

ハイドが怪訝な声を上げた。朔の足元から伸びる影が、生き物のようにうねり、燃えるような赤い瞳を持つ巨大な狼の輪郭へと変化していく。ハイドが慌てて冷気スプレーを最大出力で放射した。しかし、すでに遅い。

「影の潜行(シャドウ・ステップ)」

朔の肉体はドロリと足元の影の中に沈み込み、冷気の直撃を完全に透過した。ハイドが目を見張る。次の瞬間、ハイドの背後に広がる影から、朔が静かに実体化した。その機動力は、人間を遥かに超越していた。

「なっ、背後だと――!?」

ハイドが振り向きざまに氷の棘を放つ。朔は影の中から「影の触手」を伸ばし、迫り来る氷の棘を空中でことごとく叩き落とした。そして、影狼の俊敏性を乗せた鋭い一撃を、ハイドの液体窒素タンクの接続弁に向けて叩き込む。

衝撃波と共にタンクのバルブが破壊され、超低温のガスがハイド自身に向けて逆流した。ハイドはガスマスクの奥で悲鳴を上げ、自らの冷気によって防護服ごと氷漬けになりながら、足場の崩落と共に「廃液の奈落」の底へと転落していった。

静寂が戻った。激しい雨の音だけが、廃墟に響き渡る。朔は膝を突き、激しく喘いだ。戦いには勝った。だが、その代償はあまりにも重かった。

朔が自身の右手を見つめると、ハイドの冷気による凍傷だけではない、異様な変異が起きていた。右手の指先が、光を一切反射しない漆黒のガラスのように、不気味に結晶化していたのだ。触れても何も感じない、完全な無感覚の領域。神格への強制回帰が、彼の肉体を蝕み始めていた。

そして、彼の脳内に、冷たい静寂を破るノイズが響き渡る。それは、たった今喰らった親友・蓮の、最期の絶叫だった。

『サク……逃げろ……! 奴らは、お前を――』

脳波をかき乱す「フェーズ1:囁き」の幻聴が、朔の頭蓋を内側から激しく叩き始める。朔は耳を塞ぎ、泥水の中に蹲った。親友を自らの手で喰らったという狂気的な罪悪感と、脳内に定着した死者の叫び声に震えながら、記憶なき神喰らいの探偵は、血塗られた復讐の路地裏へと一歩を踏み出すのだった。

HẾT CHƯƠNG

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